2020年1月30日木曜日

戸惑い、掻き乱され、思惟する。
その繰り返し。
その繰り返しを続けること。
息をするように。

久しぶりです。

最近、聴いている音源。
そしてここを是非お読み下さい。
http://blog.livedoor.jp/uimaki1957/archives/65954374.html

2016年8月25日木曜日

無題。

みなさん、こんばんは。
人の上に人を奉じているこの国家に生きています。人間としての恥辱も何もあったものではない。
あの方々の自由も解放もない限り、この国家の元における「国民」とやらにとっては、自由という言葉は幻想です。奉戴精神は、今もこの瞬間に連続している。
自分もあなたもその息苦しさを誤魔化すべきではない。

原民喜さんの言葉に以下のような言葉が、あります。
スベテアッタコトナノカ アリエタコトナノカ パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
広島の原爆の後に、こういう言葉を吐いたらしいが、それは今この平和と呼ばれる日常、ホントに絶望していない自分の日常、絶望から逃げている自分の日常に連続している。
自分のおじいちゃんが、長崎で見た光景に連続している。
そんな事を考えていると、思い出す言葉は、金子光晴さんが「絶望の精神史」という本の中で吐いた以下の言葉です、
日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか。人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物ではないか、とさえおもわれてくる。」

また金子さんの「寂しさの歌」という詩は、読んでいて何とも言えなくなります。
問題は、憲法がどうのこうのとか皇室典範がどうのこうのとかより、中野重治さんの言葉を借りれば、一人の人間にとって「憲法以前のところ」だと思います。


ちなみに最近の自分は、なかなかきちんとした楽曲というものが、創れずに悶々としています。
どうシンセストリングスやシンセパッドを絡めようか!?とか。

でも表現しなければ、納まらないものがあるのでやるしかないんだと。
確認するような安心するような言葉ではなく、つきつけてみたい言葉があるのでやるしかないんだと。
歌詞カードのブックレット構成は、すでにありますというか書いています。歌詞より長い言葉をぶちこめたいと思っています。
ヘルプの女性ボーカルは、小さい時にピアノをしていたみたいで、自分がピアノロールで打ち込みしたものよりも、やっぱりタッチが違うというかベロシティが違います(笑)。


最近、聴いてる音楽は、

・石野卓球さん 「LUNATIQUE」

・忌野清志郎さん 「GOD」

・宇多田ヒカルさん 「DEEP RIVER」

・電気グルーヴ 「人間と動物」 「VOXXX」
(ホントに何で今まで聴かったのか!?と後悔するほど、これ以外のアルバムもよく聴いています。CUBASE6.5を使っているらしいけど、どう使っているのかホントに知りたいです(笑)。

・Donna Summerさん 「I Feel Love」 「Bad Girls」

・Giorgio Moroder  「from here to Eternity」

・Liaisons  Dangereuses  「Liaisons  Dangereuses 」

・Metallica  「st.Anger」

・New Order  「Technique」  「music complete」
(今、一番聴いているバンドです。今は、CRASS以上に聴いています(笑))

・SCHAFT  「Deeper and Down」

・SOFT BALLET 「EARTH BORN」
(先日、メンバーの森岡さんが亡くなった時、芸術家や音楽家や文学者と呼ばれる方の死に初めてショックを受けました。8月9日のMinus(-)の福岡公演を物凄く楽しみにしていたのに・・・。もっともっと美しいメロディが聴きたかったし、生きている事を全身で表現するダンスが見たかった。)


・World's End Girlfriend  「The Lie Lay Land」

それでは、、また。
(gotcha1977)








2016年4月5日火曜日

one and help

みなさん、おひさしぶりです。

先日、閉幕したセンバツ高校野球。
自分の出身校は、センバツ初勝利をして、ベスト8に進みました。
いや~ホントに嬉しかった!!
見た事ない顔で応援していたみたいで、彼女は軽くひいたらしいです・・・。
彼女いわく、「ホントに嬉しい時は、やったー!!という顔をしないものなんやね」と。

初戦の長田戦は、相手の応援が凄すぎて、長﨑の田舎チームなんで気後れするのではないか!?と心配でハラハラでしたが、よく守りきりました。
二回戦は、ホントに感動しました。ただそれだけです。
準々決勝は、最後に大差がつきましたが、それでも最終回に1点を諦めずにもぎ取り感動しました。
夏も楽しみです。

2回も校歌を甲子園で聞いたのは、自分は初めてです。


高校野球の話は、ここまでで。


GOTCHAは、先日、自分一人になりました(ヘルプの女性ボーカルはいますが・・・)。

色々、考えたんですが、自分は、まだまだ突きつけたい!と思いますし、狂おしく求めたいと思いますので、続けます。
今まで、歌詞を書いて、ボーカルしかした事ない。アイディアは出しても曲とか創ったことないし、楽典の事やシンセのつまみやDAWの深い扱い方や、今やる事を思い浮かべると山ほどありますが、
やるしかないんですね。
だから時間はかかりますが、来年には新曲を久しぶりにリリースしたいなぁ!!と思っています。
今日のブログ記事タイトルの、「one and help」というタイトルで。
単純に今のGOTCHAの状態という事と、深い意味を込めて。
また歌詞カードには、今まで溜りに溜まった想いを余す事なくぶちこめたいと思います。
1946年11月3日から(その前から続く日本人の日常に、自分自身に!!)連続する問題に焦点をあてたいと思っています。


最近は、読んでいる本は、

・友川カズキさん 「友川カズキ独白録」


・金子光晴さん  「詩人」 「絶望の精神史」 「日本人の悲劇」 「残酷と非情」


・中野重治さん  「日本語 実用の面」



また最近よく聴いてる音楽は、

・MINUS(-)   「D」 「G」 (8月に久しぶりに生で体感できるのが、今から楽しみです)


・電気グルーヴ 「DRAGON」  「A」  「25」 「shameful」


・YMO   「solid state survivor」 「BGM」


・DEPECHE MODE  「music for the masses」

・NEW ORDER  「substance」


・友川カズキ 「復讐バーボン」


・RHYMESTER  「Bitter, Sweet,Beautiful」


・SCHAFT   「ULTRA」


・CHUMBAWAMBA  「ANARCHY」 「TUBTHUMPER」


・CONFLICT  「THE UNGOVERNABLE FORCE」


・CRASS  「Best Before」
(パンクの衝動、怒り、悔しさが弱くなっているな~と自分自身で感じると、やはりこのアルバム収録のgotchaを聴いてしまいます。それは、CONFLICTのINCRESE THE PRESSUREと題されたアルバムと同様に。)



それにしても最近、表だって何もしてないから、偉そうなことは言えないけど、(まぁこれもおかしな言葉ですよね。なんかしてないと、言葉も吐けないとか、正に資本主義国家に毒された考え方だと思う。正に権力は、至るところにある。この地では、それに天皇制がつく・・・)。

最近、ホントに思う事を、以下に。

どこにいても、安心できる言葉を求める。
理解できない言葉を排除する。
想像力も安心を求める。
想像力も排除する。
それで満足か!?
そのくらいで満足か!?
言葉の射程は短い。
想像力の射程は短い。
それが限界か!?
そのくらいで限界か!?
揺さぶられる言葉を恐れる。
想像力は、本当は恐れている。

私には言葉がない。あなたには言葉がない。
正しい言葉しかない。清い言葉しかない。
反応する言葉しかない。共感する言葉しかない。
讃える言葉しかない。
まとまった言葉しかない。 束ねられた言葉しかない。
人間的な言葉しかない。
間違った言葉がない。殺される言葉がない。
絶望的な言葉を。未来と言う言葉なんか聴きたくない。

追記(5月25日):
オバマが広島を訪れることが、そんなに歴史的なことだろうか!?
自分たち自身の歴史を創れないまま。
平和的な日常という言葉が、自分たち自身を回収する歴史が続いているままの今、この瞬間に。
平和的な日常とやらは、とっくに崩壊している。
広島・長崎を記憶しても記憶してないものが多々ある。
そもそも1945年8月6日・8月9日までが平和だったのか!?
天皇制国家日本の元における平和的な日常には、1945年8月6日・8月9日に連続する問題が今もある。



それでは、また。
(gotcha1977)







2016年3月6日日曜日

Dischargeの曲名じゃないけど、WHY WHY WHY BUT WHYで溢れる日常。

先日の投稿に続けて、3月に入って間を空けずにの投稿です。
みなさん、こんばんは。

今日も、人間(!?)としての暖かさや嬉しさや優しさや切なさがありますが、そういう想いもすぐに何かによってなくなるのだろうか!?
誰かを想う気持ちとかかき消され、何かに委ねるのだろうか!?


山城むつみさんの「連続する問題」という本のなかに<終戦記念日に連続する問題>という何度も読み返す文章があります。
その中で、こういう一節があります。
実際には、戦時下にあっても人々は合理的な思考を多分に持っていたのであり、合理的な思考を保ったまま幻想に踊らされたというところにこそ厄介な問題があるのだ。」

今も連続しているこういう問題、日常は、なぜなんだろうか!?
なぜなんだろうか!?
どうしたら抜けられるんだろうか!?

国家や秩序や民族とか、そんなに魅力があるのだろうか!?
どうなんだろうか!?

アナキスト和田久太郎さんは、
弱き者よ、その弱さに徹せよ」と言う想いをある文章で書いていましたが、彼が生きていた時間から連続している今、この瞬間の日常にかき消される想いなんだろうか!?


最近、こういう暴力がありましたね。
http://oidashisuruna.blogspot.jp/
正に、Dischargeのstate violence state control。
暴力とは何なんでしょうか!?
こういう暴力を容認して(普段は、泣けるとか切ないとか言う言葉が溢れる日常で)自分自身が造っている共同幻想とは何なんでしょうか!?

あるパンクスの友人は、こういう事をアナキズム5号で書いています、
基本的に弾圧とは、それが一人に対するものであっても皆への弾圧だ、と受け止めるべきである。」

こういう原則は、守られるべきものだと思います。

少し前まで、こういう暴力に対して、少しはもっと敏感だったはずなのに、最近鈍感になったと思います。
(これまたパンクバンドですが)DOOMの曲名じゃないけど、正にPOLICE BASTARDは、自分自身だ。

そんな今日の音楽は、久しぶりにCONFLICTのincrease the pressureです。
高校生の時に、このアルバムを聴いて、こういう人間(なのか!?)になりました。
その時の衝動に反する生き方だけはしたくない。その時の衝動に対する立ち方だけはしたい。
それにしてもただ悔しい。

(またまた)それにしても、他のクニの動きや音楽やなんやらで、燃える!と言う想いになる前に、そういう言葉を吐く前に、この地に連続している、自分自身に連続しているものをもっともっと凝視すべきなんだと思います。
そういう意味で、辺見庸さんの「1937」を読みたいな~と思っています。

それでは、また。
(gotcha1977)













2016年3月1日火曜日

いや~嬉しい!!。後半はガラリと変わりますが。

みなさん、かなりお久しぶりです。
久しぶりの投稿ですが、今日は、前半は、いつもと全然違う趣向の投稿になります。

結構前の先日の土曜日、久しぶりにスポーツ新聞を2紙も買いました。
なぜか!?
それは、自分が中学・高校を過ごした出身校が、久しぶりに「センバツ」出場が決まったからです!!

夏は、一昨年も17回目の甲子園に出ましたが、春はホントに久しぶりなので嬉しかったです。
というか小学生の時から、この高校の野球部のファンで、どんな大会でも今でも一喜一憂しています。
中等部に入学した時、食堂などで野球部の方々と話した時は感動したのを今でも覚えていますし、1990年度の主将の方と撮った写真は今でもあります・・・(笑)。
また中一の時(から中三まで)の担任の先生が、自分が野球好きを知って、その当時大山という所にあった野球部専用グランドに見学に連れて行ってくれた事は、今でも有難く思います。
その先生(在学中に亡くなった)は、いつも「君は、どういう生き方がしたいかね!?」みたいな事を訊いてくるような方でした。この先生には、ホントに影響を受けました。
自分が悩んで、登校拒否をしている時は、毎日、夕方家まで来る先生でした。
学校に来なさい!とも言わず、ただ話して帰る先生でした。

ちなみにどんな大会でも勝つと校歌を歌っているので、彼女も校歌を歌えるくらいです(笑)。
彼女に「音楽以外で、あんたが素で興奮しているのはこれだけやね」と言われます・・・。
そんな彼女も勝って校歌を甲子園で聞いてみたいね!といつも言っています。
「稲佐の山の気高き姿~鶴の港の真澄の心~♪」

彼女とは、2014年の夏の甲子園で投げて、昨年、中日に育成ドラフトで入団した投手を応援しています!!。
球団の応援は別として、阪神のある一人の選手や西武のある一人の選手も応援しています。

出場回数だけ多くて、長﨑では、デルトマケとか内弁慶とか言う方々もいますが・・・、
どこと対戦しようが、長﨑からの大舞台で緊張すると思いますが、いい試合をしてもらいたいです!!
正直、昨年秋(県大会を優勝したものの)、九州大会の一回戦で沖縄の興南高校と決まった時、あまり結果を期待しなかった時に、すぐに結果をあえて見なかった時に、先に彼女が結果を見て、「あんた、勝ってるよ!!」と言ったので、ビックリしました。
その勢いで九州大会を準優勝したので、すごく興奮しました。
九州大会・準優勝は、元ロッテの堀さんがいた時のチーム以来かな!?

ちなみに自分が、6年間通った学校は、オランダ坂と言われている所を登った所にあるのですが、通っている時は、「なんでこんな所によく観光客が来るんだろう!?」と思っていましたが、その坂には、もっと大らかでゆるやかな人々の行きかいや交流(勿論、様々な打算や欲望も)があったんではないか!?と今思うと色んな想いになります。
金子光晴さんの「江戸につながるなにものもなく」という文章の中の以下の言葉を想います。
江戸につながるなにものもなく、のこっているのは、千切りにされた、勘定高い、せち辛い現代人があるだけだ。」

また「江戸はひとつの田舎ですよ」という文章の中には以下の言葉があります。
固有のものは観光客を目的としたものにかわっていくわけだね。そういう風な傾向に便利なように、昔のことをひっぱり出してくる。テレビのふるさとの歌まつりとかをやる場合に、ふだんやってない蛇踊りとかをひっぱり出してきて、いわばそれをおとりにして、長崎をきわ出たせようとする。だから本当の長崎はなんだか、というとすこぶるわからなくなってくるわけですよ。」

やっぱり<われわれ>は、根源的な空洞の中にいるという絶望を何かに預けるべきではないと思います。自身のなさ、自信のなさを何かで誤魔化すべきではないと思います。



ちなみに、野球は好きですが、「侍」という言葉を聞くと、虫唾が走ります。
侍が、そんな大したものだと思いませんし、侍を美化しすぎ。
これも明治の教育のせいですか!?そのせいで、どんだけの方々が追い詰められたんですかね!?
侍は、とうの昔から官僚的だったと思います。
「誰々は、現代の侍」とか聞くと、怒りがこみ上げます。
そんなものに民族性なんかない。そんなものに文化なんかない。
それが、民族性で文化なら、なんてこの地の貧しさだ。
そんなものに優越心なんか持てません。
そんなものこそ、われわれの貧しさ、虚しさだと思います。

それに、名ばかりの謝罪や世界記憶遺産やら近代産業がお好きなようで。
奉戴精神や番付の心理やら天皇制感覚やらが酸素になっているこの地で、世界やら近代やらと言う言葉を吐くにはまだまだ早すぎる。
その酸素に亀裂をもたらせずに、その酸素に包まっている自分自身が許せない。
明治維新の前に、改憲の前に、自分自身は、中野重治さんの言葉を借りれば「憲法以前のところ」だと思います。
明治維新は、「人間」を産みはしなかったと思います。
そもそも、この地にホントに「ナショナリズム」なんて大そうなものを産もうをしたことがあったんでしょうか!?。また<大陸浪人>の行動に英雄主義なんか持てません。
産まなかったくせに(産もうとしなかったくせに)、優越心なんか持つなよ、逆に人間としての恥辱だ!。
まずは、この認識を自分自身に刻みたいと思います(一人の人間となりたいために)。
その認識を刻むための言葉であり、音楽だと思います。
それが、この地に生まれ落ちた自分自身にとっての言葉であり、音楽です。

それから「選挙」に収斂してしまう<運動>とやらには、凄く虚しさを感じます。
それ以外で、
<われわれ>を直接突きつけている運動 (例え何かの記事にならなくても、多くの人々の関心にならなくても) に触れた事があるから(今も自分自身が知らないあらゆる所で突きつけている方々がいる。)。


対案とか現実的(って何!?諦め!?物分りの良さ!?)とか、虚しい言葉だと自分は思います。
クソ!、ヤツラの土俵の言葉じゃないか!!

この投稿の最後に(タイトルとは逆に!!)、いや~この地に流れている自然的な時間の中に包まれて許される自分自身にイライラしています。

またまたそれから、「大和魂」って何!?
大和なんてそれこそ一地方の呼び名にすぎないでしょ!?
征服者の魂、宿してどうするんだよ!?
その魂というものが、どれだけの方々を追い詰めたんでしょうか!?
そんなものに美意識とか文化なんかないと思います。

そう言えば、(これまた結構前に)、母親が絵が好きなもので、藤田嗣治さんの映画(FUJITA)を見たい!と言い(オダギリさんは格好いいですね)、一緒に見に行きました。
自分の感想としては、日本的な美や文化とか感じなく、良くも悪くも、日本的共同幻想や日本的な無責任の体系性を感じる映画で、そういう流れの中で今の自分がいるという息苦しさを感じた映画でした。反戦映画というより「the日本」という映画でした。
またあの映画からは、藤田さんが<近代的自我>を持っていたとは思えなかった。
またあの映画監督は、日本的共同幻想の良さに藤田さんには気づいて欲しかったみたいな事を言っていますが、それが、どれだけの方々を追い詰めたんでしょうか!?
それこそ「空漠不徹底な独断(柳田国男さんの言葉)」じゃないでしょうか!?

またリメイクされた「日本のいちばん長い夏」と言う映画を見たけど、なんか~!?日本人特有の天災で流して、お涙頂戴みたいな、みんな<いい人>みたいな映画でした。
悔しき映画だった。悔しくなる映画だった。
なんかよく「長崎」と言われるが、長崎とは、なんなんだろうか!?
<いい人>が、長崎を引き起こす。<いい人>が、加害者にもなり、被害者にもなる。
自分自身が造り出す今によって。
もっともっと突き刺すような言葉を吐いてみたい。
もっともっと絶望させられるような言葉が聴きたい。


それにしても普段は、(良くも悪くも) 自分の事や<家族>や<仲間>のことしか考えない(金子光晴さんの言葉を借りれば!)「理想のない、消極的な、ぐうたらな」 「移りゆくものといっしょに生きてゆく」日本人(まさに自分自身!!)のくせに、なにかの時だけに悲壮感を持ち、美化し、金子光晴さんの詩のタイトルの言葉・「寂しさの歌」に導かれるなんて、人間としての貧しさ・虚しさだと思います。

それにしても、自分は、一人の人間としての悔しさ、貧しさ、虚しさ、寂しさなどをホントに感じているのか!?
もっともっと感じるべきなんです。ホントに感じられない絶望を。
自分は、今この瞬間をもっともっと絶望すべきなんだと思います。
自分は、今この瞬間をもっともっと生きるべきなんだと思います。
しかし、今、自分は、生きることが分からないし、何をもって生きたらいいのか!?が分からない。自分には、なにもない。
あなたは、何をもって生きていますか!?
家族だろうか!?友人だろうか!?仕事だろうか!?趣味だろうか!?音楽だろうか!?本だろうか!
こういう話を彼女にすると、「寂しいね」と言われました。

ちなみに、ある友人(というか先輩)が、「反戦」という事について、自身のブログで記事を書いていましたが、パンクスにとって馴染み深いこの言葉(crassやconflictが言っていたからとかではなく)が、自分にとってホントにどういう生き方を問うているのか!?
何が「GOTCHA」だよ!?
ホントに認識して、ホントに生きて、ホントに闘っているのか!?
ホントに鼓動を鳴らしているのか!?

久しぶりの投稿も、音楽で言えば、<転調> (しかもまとまりのない!)ばかりで、すみません。
♯ファ ド ソ レ ラ ミ シ  ♭シ ミ ラ レ ソ ド ファ



今日の音楽は、
友川カズキさんの「復讐バーボン」というアルバムです。
何十年も前に、パンクの先輩にCDを借りたような気がします。
それから昨年まで聴かずに過ごしていたのですが、書店でたまたま「友川カズキ 独白録」という本を手に取ったところ、これは読みたい!!と思い、すぐに購入しました。
それから、久しぶりに友川さんの音楽をよく聴いています。

この本の中には、何度も読み返してしまう言葉が、多々ありますが、
よく読み返すのは、「何に焦がれていくのか」、「何を焦がしていくのか」というとこです。

またドキュメンタリー映画「花々の過失」をdvdで何度も見ましたが、「おまえはどうするんだ?」ってね、胸ぐら掴まれて問い詰められてるよう(独白録の中の言葉)な映画でした。

(またまたですが)、今の自分を問い詰めるような言葉は、「海みたいな空だ」という曲の中の以下の歌詞です、
人がある 国がある
 のんきに錆びつくものがある
 群れて許される顔に
 目ん玉を投げつけてやる

復讐バーボンというアルバムの中に、「家出青年」という曲がありますが、
その中に、「悔しき暴力である」という歌詞がありますが、今もこの瞬間にある暴力に、自分自身が造っている暴力に、群れて許される暴力に、ホントに悔しさを感じているのか!?
気休めみたいな希望で流す自分を許す自分自身。
馴された希望の言葉に奥歯を噛みしめていたい。
未来という言葉に奥歯を噛みしめていたい。

それでは、また。
(gotcha1977)
































2015年2月2日月曜日

ぎこちなく、それは、それはか細く、いつ消えるかもしれない鼓動を奏でたい、一緒に。

みなさん、どうも。久しぶりに間を開けずに投稿(笑)。

先日、昔からの腐れ縁(笑)の方と長時間話をしていて、今日のタイトルの言葉を思いました。

先日(このブログで紹介したminus(-)とLillies and Remainsですが)、彼女と、Lillies and RemainsのROMANTICISMリリースツアー2015(special guest・ minus(-) )の福岡ライブに行きました。

一言で言うと、ホントにホントにホントに!!感動しました。
久しぶりに、この音の空間にいたいと思いました。この音を浴び続けたいと思いました。
気持ちが良かったです。

minus(-)は、森岡さん・藤井さん2人のシンセ(だけのセッティング)や打ち込みの音が美しすぎて泣けました(ホントに)。生は、音源以上に良すぎました。
お二人とも格好良かったです。

Lillies and Remainsは、音源とは違った楽しみがありました。
音源以上に、ライブは良かったです。Bodyという曲が生で聴けたのは良かったです。

彼女も音が気持ち良かったようで、また体感したい!!と言っていました。
でも彼女に、ライブ後にご飯を食べている時に「あんたは、声質はいいと思うけど高音に伸びがないんよね」と駄目だしされました・・・。

そんな自分ですが、最近やっと楽譜が読めるようになりました(笑)。
以前から、TKさんに「感覚的だけでなく・・・」と言われていましたが・・・。

そんな今日の音楽は、これです!!

最近、リリースされた2015年版の「悪の華」。



それでは、また。
(gotcha1977)







2015年1月25日日曜日

2015年。

みなさん、かなりお久しぶりです。
2015年ももう1ヵ月近く経ちますね。
いかがお過ごしでしょうか!?
2014年も色々とありまして(それは、みなさん一人一人もそうでしょうね)、何十年の付き合いになるTKさんと互いの想いを今までになく激しく罵り合い(笑)、言い合ったりしたり・・・。たまには、罵り合うのもいいものです(ホントに)。

まぁでも最近は、新機材を使ってTKさんと新曲創りを少しづつ開始したとこです(そして、一緒に奏でたいもう一人の方を待っているところです。人間的にというか(笑)、感覚的に惚れているので、諦められません(笑))。

ちなみに新曲達のテーマは、「POP」!!
深い意味を込めてですが、POPって難しいですね。
それは、単純に曲調だけの事ではなくて、一体化される(されてしまう)POPではなく、あくまで個的なPOPが、いかに普遍性を帯びうるものになりうるのか!?

曲調だけではなく・・・と書きましたが、(勿論!!)曲調も大切な事で、TKさんに「耳に残る、グッとくるやつ」とか「もっとはじけた感じ」とか「爽やかな感じだけど、内にドロドロした感じ」とか「もっと美しい感じ」とか「それ、前と同じで面白くない」とか昔から相変わらず解りにくい事を言っています・・・(笑)。
でも挑戦したいな~と。まずは、新機材を使って新曲3曲くらいを創りたいな~と。




最近というか昨年から繰り返し繰り返し読み返している本は、以下のものです。

・橋川文三さん 「順逆の思想 ~脱亜論以後~」 「日本の百年4巻 明治の栄光」

・松本三之介さん 「日本の百年2巻 わき立つ民論」 「日本の百年3巻 強国をめざして」 「明治精神の構造」

・山城むつみさん 「連続する問題」

・林淑美さん 「昭和イデオロギー ~思想としての文学」 「批評の人間性 中野重治」

・辺見庸さん 「死と滅亡のパンセ」 「自分自身への審問」

・石原吉郎さん 「望郷と海」

・中野重治さん 「五勺の酒」 「村の家」 「緊急順不同」 「中野重治評論集」
(中野重治評論集に収録の<風習の考え方>という短い文章の中の「事実をいろどるあるイデオロギー的なもの」という言葉に衝撃に受けました。
毎日、自分も逃れなくそういうイデオロギー的ものに流され、自分自身が、あるイデオロギー的なものにくるまって、何かをこぼれおちさせているのだろう。そういうイデオロギー的なものを突き抜けたい、ただ強くそう思う。)


・アナキズム18号 
http://anarchism.sanpal.co.jp/item/1104

こういう方々の言葉や友人達の何気ない言葉や湧き上がるような言葉に触れると、自分の言葉なんかは、ただそれっぽい事を言って自己満足しているだけではないのか!?と思います。
それっぽい音楽を聞き、それっぽい本を読み、それっぽい自分。
ホントは、自分の中の問いなんかなくて、自分自身の中から湧き上がる問いなんかなくて、その事を凝視せずに、自分一個が、ただ一人の人間になるために、自分自身で一人の人間を産むためにホントに問われている根源的な事は何のか!?を思考せずに、それっぽくポーズ(ポーザー)を取っているだけではないのか!?と。

そう自問すると、「火傷するような恥(中野重治さんの言葉)」」を感じます。
この恥を払いのけたいために、自分自身の言葉を産まないといけないと思っています。
ホントに怒っているのか!?ホントに悔しいのか!?
ホントに見たいのか!?ホントに聴きたいのか!?ホントに語りたいのか!?
ホントに奏でたいのか!?
ホントに人間であるがゆえの恥辱を感じているのか!?
ホントに人間であるがゆえの恥辱を払いのけたいのか!?

1871年に感染し1910年代に発症して以来、現在までずっと連続している問題は今後も執拗に連続し続ける。
だから、まずは、確固たる加害者を自己に発見することを避けてはならない。被害の事実を誇張することで自身の加害の事実を『なかった』ことにする姑息な被害者意識、加害者としての自己を他者に投影した上で他者を攻撃する臆病な雄々しさに身を委ねてはならない。
確固たる加害者を自己に発見する勇気を、まずは、自己のうちに育てよ
(山城むつみさん・連続する問題)」

問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている
(石原吉郎さん・ペシミストの勇気について)」

一言でいい、マグマのように自分の底の底から湧き上がるような言葉を吐きたい、叩きつけたい。
その一言は、永久に出ないのかもしれない。
でも、だからこそ自分は思考したい。想いたい。見つめたい。悔しがりたい。怒りたい。

またなぜ自分は、自分が生まれる前や物心つくまえの言葉を読まないといけいないのか!?を後押しする文章は以下のものです。
http://www.linelabo.com/takeuchi-selection.htm
この文章は、自分がいつも想い返していて、勇気づけられる「歴史的個体に対する人間の固執的エネルギー」という橋川文三さんの言葉を改めて想い起こさせてくれました。
自分は、自分の「力・エネルギー」を、どう配置するのか!?どう配置したいのか!?


また(また)昨年から、よく聴いてる音楽は以下のものです。

・BUCK-TICK  「或いはアナーキー」 「SEXY STREAM LINER」
(昨年は、2回も生で体感出来て良かったです。SEXY STREAM LINER収録の<Schiz・o幻想>という曲を一度、生で聴いてみたい!!)

・SOFT BALLET  「DOCUMENT」 「LOVE AND PEACE」
(LOVE AND PEACE収録の<SAND LOWE>という曲は、いろんな音や声が聴こえてホントに好きです。)

・MINUS(-) 「D」
(アルバム全体を通しての流れや各々の曲が美しく好きです。今週、生で体感できるのが楽しみです。)

・LILLIES AND REMAINS 「MERU」 「ROMANTICISM」
(ROMANTICISM収録の<Body>という曲は大好きです。これまた今週、生で体感できるのが楽しみです。)

・THESE NEW PURITANS 「HIDDEN」 「FIELD OF REEDS」
(こういう雰囲気のバンドは、どういう訳か大好きです(笑)。)

・ライムスター 「MANIFESTO」 「POP LIFE」
(POP LIFE収録の<そしてまた歌い出す>という曲は、中野重治さんの村の家という小説の中の言葉<よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。>を想い起こさせます。
またMANIFESTO収録の<ラストヴァース>という曲の歌詞は、ホントに好きです。
例えいつかジャンルごと消滅しても その詩だけは時代を超越 そんな最高の最後のヴァースを夢見て 今また挑戦する・・・
もっともっと一言、一音にこだわりたい。。と思わされます。
それにしても一度、生で体感してみたい。ねぇ、Hッセー(笑)!?そして体感した後に、あなたと色々と言葉を交わし合い、一緒に言葉を創造したい。)

・K ダブシャイン+宇多丸 「物騒な発想」
(歌詞が問いかける。お前は、火傷するような恥を感じないのか!?と。お前の日常、お前の毎日が、例外なく歴史的な瞬間の中で、お前は、どうするんだ!?どうしたいのか!?と。
そして<えらく地味で地道だがお前の敵はしぶといぜ>という歌詞を聴くと、
埴谷雄高さんの<敵は制度、味方はすべての人間、そして、認識力は味方の中の味方>という言葉を想い起こさせます>。

後30分くらいしたら、38才になります(笑)。
そして今、この瞬間の音楽は、ライムスターのONCE AGAINです。
財産は唯一最初に抱いた動機」という歌詞が、好きです。
自分は、パンクと知り合って以来、ずうっとこんな感じです。
まだまだ終わるわけにはいかないな~と。

誕生日プレゼントで欲しいのは、ノーカラーのロングシャツとか・・・(笑)。
でも相変わらず背が低いので(笑)、着丈があんまり長いと似合いませんね・・・(笑)。

そう言えば、昨日、NHKの特番で三島由紀夫さんの番組があっていて、彼女と一緒に見ていたけど、彼女が、「三島さんて、優しい感じがする」と言った時、ドキッとしましたね。
思想的に(とか偉そうに言いますが)好きではないですが、自分もそんな感じがします。
誤解を恐れずに書けば、三島さんの想いを(やろうとしたことを)「くだらない」とすぐに判断を下すのは、どうかと思います。
三島さんのような想いに、根源的に拮抗出来る言葉を。
拮抗出来るだけの言葉を吐いているのかと!?。
大きくでましたが(笑)、挑戦したい。

それでは、また。
(gotcha1977)









2014年7月2日水曜日

憲法。

今日も「国家」とは何だろうか!?という事をやっぱり考えざるを得ないです。
平和も戦争も国家という存在(しているのか!?していないのか!?)自体を根源的に問う事しか始まらないと思うんですが・・・。
また第一条がある限り、そもそも<ナショナル>もないと思うんですが・・・。


憲法と言えば、明治14年、植木枝盛さん達は、「東洋大日本国国憲案」というものを起草したようです。
その中の第四編で、以下の条文を書いています。

第63条 日本人民は日本国を辞することを自由とす

第71条 政府官圧制を為すときは日本人民は之を排斥するを得
政府威力を以て専恣暴逆を逞ふするときは日本人民は兵器を以て之に抗することを得

また植木枝盛さん達は、それこそ国際情勢が厳しい時に、「無上政法論」というカントさんの「永久の平和のために」を思わせるものも起草しています。
また(また)植木枝盛さんは、究極の理想は、国家の廃絶というとこまで考えていたことに自分は勇気づけられるわけであります。
こういう言葉が、通じないのは解っています。知識とかそういうものではなく、互いに通じないという根源的な所から始めるしかない。
通じないから考える。
簡単(!?)に通じるなら、逆に人間の価値なんかないとも思います。
その通じないという重さに拮抗出来るかどうか!?こそが人間の価値ではないかと思います。
憲法がなんだ、天皇がなんだ、国家がなんだ、そんな観念的なものではなく、この毎日が戦争のような平和な日常という息苦しさの中では・・・。

今日の自分の言葉も、石川啄木さんの言葉 「言葉とおこないを分ちがたき」の真逆のものにすぎない・・・。
そんな自分ですが、アナキズムの「国家の廃絶」という原理・思想(!?)だけは今日も夢想したい、信仰したいと思います。
それこそ大文字のアナキズムかもしれませんが、こういう夢想なく、なんのためのサークルAぞ!?
こんな言葉も、口だけにすぎない・・・。

それでは、また。
(gotcha1977)







2014年6月20日金曜日

長崎。

先日、東京でHッセーと「長崎被爆者に対する暴言」について、結構議論というか素直な考えを言い合ったんですが・・・。

今から記述する事は、誤解を恐れずに素直に自分の意見を述べます。

その新聞記事を読んだのは、ちょうど長崎にいた時に長崎新聞で読みました。
で最初は、「ひでぇ~暴言だ」と思いました。
でも色々と読んだり、自分なりに考えた事は、その中学生は、長崎・原爆・平和・反核という正しさの圧迫感を感じたんではなかろうか!?と。
そんな正しさを感じられない世界への言葉だったんではなかろうか!?と思います。
そんな正しさを感じられない、この平和な日常性に対する彼なりの(それこそ、最近あんまり使いたくない言葉だけど)「闘争」の言葉だったんではなかろうか!?と思います。

言っておきますけど、暴言自体を認めてはいないですよ。
でも「ひでぇ~」とか「反核」とかいう言葉では、もう何も変わらないと思うんですよ。
そんな言葉なんか信じられない人々なんてゴロゴロしているでしょ!?
だからこそ、もっともっと言葉を吐くなら、考えないといけないとホントに思います。
だって今も昔も長崎の原爆につながっているものは、この今、この瞬間にゴロゴロしているでしょ!?
ヤツラが言う「憲法9条改正」がどうのこうとかではなく。
例えば、「男の中の男」とか、そういう言葉こそが、戦争につながっていると思います。

また今から、書くことは、別に公にしたくはないけど、
それこそ自分は、被爆3世です。
大好きだったじいちゃんが、浦上(という長崎の場所です)で被爆して、奇跡的(!?)に助かって、被爆した後に父が生まれて、今の自分がいる。

でも自分は、どちらかというと、長崎の地で、高校生の時くらいから、日本の加害責任の追及の運動とかに興味をもった。
「日帝本国人」とかいう言葉を使いたいわけではなく、長崎って何だろな~!?と思いました。
この日常の裏の世界の縮図ではないだろうか!?と思います。
だからっと言って、日本人特有の虚無的な、「もののあわれ」という、人間としてクソみたいな無責任な心境になる事は、絶対に拒否する。

それでは、また。
(gotcha1977)










2014年6月17日火曜日

東京は、楽しかった!!

先週の金曜から3泊4日で東京に行きました。
Hッセーには、色々と連れて行ってくれて、色んな方々に紹介してくれてホントに感謝しています。
前々から会ってみたいな~と思う方々と会えて良かったです。
人見知りをするので、うまく話せなかったのがあれなんですが・・・。
また再会したかった敬愛している方や会いたかった方々には会えなくて残念でしたが、次回の楽しみにしたいと思います。

着いた初日から、オールナイトのhip hopのイベントに行き、何線(吉祥寺~渋谷)かは忘れましたが、帰りの始発の電車内で、Hッセーと寝入って、2往復もしていた事などいい思い出になりました。
次の日の、1981というフィンランドのアナーコパンクの日本ツアー初日を体験できたのも良かったです。
同じステージで、以前から体験したかったCやUNARMなども見れて良かったです。
そんな今日の音楽は、これです!!

CのAさんとは、2週間前にも福岡で、CONTROLの企画ライブの時に会ったので不思議な感じでした。
いつも何かと誘ってくれて、いつも断ってばかりが続いていますが、ホントにいつも有難く思っています!!

色んな刺激を受けた3泊4日だったので、また明日からCUBASEさんをもっと使い慣れて、自分自身の音楽・言葉を創ろうと思います。
でも最近つくづく思うことは、自戒的に、言葉は声明文であっては面白くないな~と。
自分の言葉には、「詩」がなかったと最近ホントに痛感しています。

それでは、また。
(gotcha1977)












2014年6月3日火曜日

なんじのlongingを空際に投げよ、空際より、なんじが人間に為すべきの天職を捉り来れ、(北村透谷さん)

みなさん、お久しぶりです!!
先ほど、友人と話して久しぶりに投稿しようかな~と思い投稿します。
来週、長年、想い続けている会いたい方に会いに東京に行こうかな~と思っています。

前回の投稿から、ずう~っと投稿する気力がなかったのは、打ち込みソフトをcubase7.5にして、それに慣れるのに精いっぱいで・・・。
慣れない事をほぼ毎日何時間かしていたら疲れきって、眠る感じでした。
慣れたら、楽しくてしょうがないです(笑)。
コードトラック機能とかコードアシスタント機能とか面白いです。また「こういう音色を重ねたい!!」と思いながら、ソフトシンセの音色を探し、イメージに合う音色があった時の快感がたまりません。

(画像は、簡単なコード進行とBUCK-TICKのnew singleの<形而上 流星>)

cubase7.5も最初は、凄く慣れるのに苦労!?(苦労なのか!?言いたい事があるからこそのものだろうと。伝えたい事があるとかではなく、自分自身が言いたい事があるからだろうが。メッセージなんかない、ただ言いたい事があるだけ。) しましたが、操作とかにイライラしたり、うまくいかない事があったりして、投げやりになると、彼女に「あんたが、歌いたい!という気持ちはそんなものか!?そんな半端な気持ちなら、辞めてしまえ!!」と筑豊弁でまくしたてられました・・・。

今日のタイトルにいきます、
北村透谷さんは、橋川文三さんの本にちゅくちょく名前が出てきて、直接に読んでみたい!!と思う方でした。
岩波文庫版・北村透谷選集を読んでみると、物凄く!!くるものがありました。
それこそ<形而上>的な言葉かもしれないけど、「じゃあ、今、何を信じ、何のために生きている!? 解りやすくニュースや世界(!?)情勢を解説してくれる言葉で満足なのか!?解りきったような言葉で満足なのか!?他者を罰するような言葉で満足なのか!?」と。

BUCK-TICKのニューシングルを聴くと北村透谷さんの言葉を読み返したくなり、北村透谷さんを読み返すとBUCK-TICKを聴きたくなる。

形而上というと、<ドイツ観念論>ですかね。
先日、彼女とガンダムユニコーン7を見に行ったんですが、彼女が「あんたが、好きそうな言葉があるね」と言っていましたが、
自分は、「人間だけが神を持つ、今を超える力、可能性という名の内なる神を」というセリフが好きなんですが、ユニコーンに出てくる言葉を聞くとカントさんを思うんですが、一方でカントさんの「道徳律」やルソーさんの「一般意志」は、恐い感じがします。
「じゃあ、自分はどうしたらいい!?」に尽きると思うんです。答えなく、それを考え続ける事を北村透谷さんの言葉の数々から学びました。
そう素直に感じられたのは、やっぱり<パンク>のおかげかな!?と思います。
There is no authority but yourself!!


吾れ世にただようこと数戴、未だ曾て疑迷を脱せず、希の哲学も近世の哲学も、悉く以て、余を慰癒するに堪えず、もうもうとし、恍々とし、虚然とし、鬱然とし、想至り情極むとも、以て余を如何ともするなし。(北村透谷さん・渡守日記)」

運命人間の形を刻めり、境遇人間の姿を作れり、不可見の苦縄人間の手足を縛せり、不可聞の魔語人間の耳朶を穿てり、信仰なきの人、自立なきの人、寛裕なきの人、往々にして極めてあわれむべき悲観に陥ることあるなり、之に加ふるに頑愚の迷信あり、誤謬の理論あり、惑溺の痴心あり、無憑の恐怖あり、盲目の驕慢あり、涯なき天と底なき地の間に、
what a poor wretched creature as i am,
creeping between heaven and earth.
と絶叫するもの、豈ハムレットのみならんや。(罪と罰の殺人罪)」

人は理想あるが故に貴かるべし、もし実存の仮偽なる境遇に満足しおわる事を得るものならば、吾人は人間の霊なる価値を知るに苦しむなり。理想なくては希望もあるまじ、希望なくては生命もあるまじ、唯だ理想あるのみにては何の善きを見ず、吾人は理想を抱くと共に、理想の終極まで貫き至らん事を望むべきなり。(一種の攘夷思想)」

造化は人間を支配す、然れども人間もまた造化を支配す、人間の中に在する自由の精神は造化に黙従するを肯ぜざるなり。造化のちからは大なり、然れども人間の自由もまた大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。(内部生命論)」

北村透谷さんの言葉は、浮き沈みが激しいんだけど、近代日本の歴史の重圧の中で、日本的な共同幻想の中で、いかに「詩的生命」は可能か!?を懸命になって放ったものだと思います。

北村透谷さんと<文学界>同人の平田禿木さんは、日清戦争(明治27年)の時にこういう言葉を吐いています、
如何に快心なる国民的発動と雖も、如何に壮偉なる国家的観念と雖も、決して詩的永遠の生命を有するものにあらざるなり・・・」


北村透谷さんや最近、読んでいる他の本や聴いている音楽について書きたいことがいっぱいあるけど、寝ます(笑)。
色川大吉さんが書かれた「北村透谷」という本も、凄く良かったです。

この投稿の最後に。
BUCK-TICKのシングル<形而上 流星>の、「胸を裂く 破裂する きっと死ぬほど美しい 夢を見た」という歌詞は、くるものがあるけど、その美は、果たして全体の幸なのか!?幸と美は調和するのか!?罪ではないのか!?。でも見てみたい。
このシングルを聴いてから、カントさんの言葉(道徳形而上学原論という本)を読み返しているけど、そんな想いにさせられる。
今月4日に、BUCK-TICKは、「或いはアナーキー」というアルバムをリリースするみたいです。
曲もいいけけど、ボーカルの櫻井さんの言葉の一つ一つを大切にした歌い方がきますね。
ぞくっとします。曲もかすかに聞こえたりする細かいシンセの音が好きです。

それでは、また。
(gotcha1977)















2014年2月4日火曜日

CUBASEさんとか。

みなさん、お久しぶりです。
早いもので、年が明けてもう1ヵ月も経ちますね。

昨年末くらいに、CUBASEさんに色んなVSTインストゥルメント(エフェクト)を組み込んでから、それにくびたっけになっています。

ここ何年かの間、引っ越しや病気やそれ以外にも色んな事があったり、色んな感情が芽生えましたが、今年中には、次の構築へ向けて行きたい(生きたい・活きたい)と思っています。


それにしても色んなエフェクトがありすぎて、色んな音を重ねすぎて、訳が分からなくなり、色々試して、創ったものを次の日に聴いたら、面白くない!!と思い削除したりの繰り返しです・・・。

そろそろCUBASEさん自体を最新の7バージョンにしようかな~と思っています。


また最近は、以下の音楽を聴いています。

・GODSPEED YOU!BLACK EMEPEROR  「Allelujah! Don't Bend!Ascend!」

・Joy Division  「CLOSER」

・MASSIVE ATTACK  「MEZZANINE」

・SCHAFT   「SWITCHBLADE」

・XINLISUPREME   「MURDER LICENSE」 「4 BOMBS」
(凄まじい情念を感じます。)


話ががらりと変り、先週末、長崎に行きました。
久しぶりに「長崎らんたん祭」を見ました。
この祭りは、自分が高校生くらいに始まったと思うんですが、始めの頃は湊公園くらいだけで開催されていたのに、規模が大きくなっていて、また人の多さにビックリしました。
彼女は、中国獅子舞が見れてご満悦でしたが。

またオランダ坂を何十年ぶりかに歩きました。
オランダ坂へ向かう道が広くなっていて、これまたビックリ!!
このオランダ坂を上ったとこにある学校に、中・高6年間を通っていました。
彼女は、「なんかキザな学校名ね」と笑っていましたが。
自分は、オランダ坂を歩いている時は、校歌を歌っていました・・・。
「国家の歌」の歌詞は、ホントに覚えていませんが(覚える気がない!?)、校歌の歌詞は今だに覚えています。
彼女は、「美輪さんも覚えてるんかな!?」とか言っていましたが・・・。

それでは、また。
(gotcha1977)








2013年12月11日水曜日

いつか世界は輝くでしょうと歌い続ける・・・(BUCK-TICK・RAIN)

みなさん、こんばんは。

今の情況がどうのこうのとかではなく、いつも今日のタイトルの言葉は信じたい!!と思います。
敬愛している友人の一人は、「デモとは、一種の歩き念仏」みたいな事を言っていましたが、自分もそう思います。
「信仰みたいなものか!?」と言われたら、「そうだ!!信じたい!!」と,
はっきり答えたいと思います。

はっきり言わせてもらうと、悔しくてたまらなくなる。
人間の存在の意味が、可能性が、多様性が、それぞれのある一つの幻想性に制限されることが。

柳田国男さんの言葉「未来を愛すべきこと」とドゥルーズさんの言葉「世界の存在を信じること」を安易に結ぶ事は、思想的には意味が違うでしょうが、そんな2つの言葉が自分の中では結び合います。

ドゥルーズさんは、「スピノザ・実践の哲学」という本の中で、以下の言葉を紹介しています。
思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしない準備でしかない。いつかそのレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう・・・(ヘンリーミラー)」

その一方で(だからこそかな)、今日のタイトルのRAINという曲には「君を悲しませるつもりじゃない・・そうじゃないのに」という言葉があり、個人的には、橋川文三さんが書かれた<歴史のアポリア>という文章の中の「歴史の中の人間の問題性」という大きな問題を考えさせられます。
自分は、「国家の中の人間の問題性」と思いました。

また最近、読んでいる橋川文三さん対談・講演集「時代と予見」と題された本の中の以下の二つの所は、何とも言えない気持ちになり、そして悔しくなり、それでも!!こういう言葉を吐く人間がいた事を、そして今もいる事を実感しています。「思想・人間の原点」を信じる。

長くなりますが、その二つを掲載します。

①一つは、その「時代と予見」に収録されている、<靖国思想の成立と変容(1974年)>という講演の以下の所です、

「この木村久夫(*<世紀の遺書>にも<きけわだつみのこえ>にも、共通の名を留めている戦犯死刑囚の方)の遺書の中で、私がここでとくに引用したいのは、実は次のような一節にすぎません。それは靖国思想を考えるための非常に適切な出発点になるし、日本人の死生観のもっとも純粋な象徴でもあるようにずうっと前から私は考えているからです。

私の葬儀などは簡単にやって下さい。ほんの野辺送りの程度で結構です。盛大は却って私の気持ちに反します。墓石は祖母様の横に立てて下さい。そこからは遠く吹田の放送局や操車場の広々とした景色が見えましたね。お盆の時、法生詣りして、遠くの花壇でうち上げられる花火を遠望したことを思ひ出します。
私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも<ダリヤ>や<チューリップ>などの華やかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後はことに華やかに明るくやって行きたい。と思います。
美味しい洋菓子もどっさり供えて下さい。私の頭に残っている仏壇はあまりにも静かすぎた。
私の仏前はもっと明るく華やかなものでありたい。
仏道に反するかもしれないが仏になる私が願うことだからよいでしょう。
そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である4月9日を仏前で祝って欲しいと思います。
私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生まれた日だけであって欲しいと思います。』

木村はここで死をよりも、生まれた日によって記憶されたいという一見不思議な願望をのべております。
そこに日本人の古くからの生れかわりの願望の反映がみられるように私は思いますが、その願い以外に、国家や靖国やのことは全く彼の意識に浮んでいないことがわかります。
国家や軍隊や靖国がいかに表面神々しい装いをもっておろうと、およそ人間であることの純粋な希望とはかかわりをもたないということをこの聡明な青年は見抜いていることを私は感じます。
少しむずかしく言えば、日本人の国家信仰に古くからひそんでいるアニミズム的な共同体霊の信仰からこの人は抜け出しております。
だから自分の家族にはもとより、およそすべての人類にとっても共通の喜びである生誕の日によって記憶されたいと願っているわけです。
墓前のダリヤたチューリップは、そのような新しい願望のシンボルではないかと私は思います。

それからこの<世紀の遺書>には、何人かの朝鮮、台湾民族の兵士、軍属の遺書ものっています。なかでも開城出身の軍属趙文相という人の遺書にある次の一節は、日本人のそれとはことなったある開かれた思想を暗示していると思います。

あの世ではまさか朝鮮人とか、日本人とかいう区別はないでしょうね、と金子咏嘆声。浮世のはかなき時間に何故相反し、相憎まねばならないのだろう。日本人も朝鮮人もないのだ。
皆東洋人じゃないか、いや西洋人だって同じだ。ああ明日は朗らかに行こう。』

くりかえすようになりますが、日本軍とともに行動した多くの異民族の魂も祀り、慰めるという発想が神社の側に欠如しているかぎり、靖国といってもそれは日本人限りの部神信仰に帰ってしまうはずです。
木村久夫の場合には、それを超える思想の原点が見られるのではないかと私は思うわけです。」


②もう一つ掲載する所は、<生活・思想・学問(1970年)>と題された講演の中の以下の所です、

「・・・今までの話のしめくくりになるかもしれないので、柳田さんのある言葉を紹介しておきます。

人間は動物だ。しかし人間は、神を思い、死後を信じ、そして自分たちの努力でどこまでも社会を改造していける、賢い動物である。そしてそれ以上のものではない。』という意味の言葉です。

 私が<生活・思想・学問>ということを貫いていえることは、さっき正宗白鳥と小林秀雄の論争を紹介しましたけれども、たしかに正宗のいうように、思想というものは人間の役に立たないかもしれない。しかし、人間が神を思いうる。これは必ずしも宗教的な意味ではございません。
私は、特定の宗教の神を指さないでいいと思います。柳田さんという人も、宗教心、宗教的感受性はもってはいましたけれども信仰者ではない。宗教家ではなかったわけです。
宗教心といいますか、宗教傾向は非常に豊かにもった人ですが、何か特定の神様を信じたとかいうことはありません。
神を信じるということは、中江丑吉さん流にいえば、人類、ヒューマニティーです。
これを信じるということと同じであると思います。
そして死後をまた思いうるということは、人間の歴史に対する信頼です。それを示していると思います。
だから私は、<生活・思想・学問>をとおして、それが今いった意味で神に通じる、つまり人間の歴史への信頼をよび起こすものであるというのが決定的なことで、いわゆる学者とよばれたり、思想家とよばれたりする必要はあまりないわけです。
(中略)
普通の人間、中江さん流にいうとコンモンマン、コンモンな生き方をしている人間の中に実は、いわゆる学者先生、いわゆる思想家、評論家先生よりも本物の思想が流れてがいることがあるんだという意味だと思います。
皆さん自身も、まさにヒューマニティーとして生きているわけです。
そこから出発して、皆さん自身のスタイル、思想、学問をつくり出されんことを期待して、おしまいにします。」

以上、掲載終わり。
こういう言葉を読んだり、先日久しぶりに会った友人達 (ホントにいい夜でした、ありがとうございました!!)の言葉を思ったりすると、
毎日、悦に入っている<ヤツラ>が発する言葉を許している自分自身を許せなくなる。

そんな今日の音楽は、先日このブログでも紹介させて頂きました、
URBAN HEAD RAWの新作です。
この音源を一足早く聴かせて頂いた時、ホントに動かされました。人間が創る音楽を信じる!!と思わされました。



それでは、また。

(gotcha1977)




2013年11月22日金曜日

田原坂・西南戦争と宮崎兄弟。

みなさん、お久しぶりです。

今日のタイトルに関連して、先日、熊本に行きました。
植木町にある「田原坂」とその資料館などと、荒尾市にある「宮崎兄弟の生家・宮崎兄弟資料館」へ。

田原坂は、小学生の時から行ってみたい所でした。
自分が小学生の時、年末時代劇スペシャルみたいな番組が毎年あり、その中の一つに田原坂と題されたドラマがあったからです。
「白虎隊」・「田原坂」・「五稜郭」・「奇兵隊」というタイトルがついた一連のそのスペシャル番組は、ビデオに録り、何回も見ました。
小学生の時の修学旅行は、熊本だったのですが、阿蘇山と熊本城とグリーンランドだったと思うんですが、田原坂が行くコースになくてガッカリした事を覚えています。
でも熊本城の中の展示コーナーに西南戦争関連が結構あって、興奮したことを覚えています。

歴史好き(この言葉の使い方もおかしいですが、歴史が好きとは何か!?とか今なら考えますが・・・)になったのもこの年末時代劇のおかげで、それから、マンガ日本の歴史とか星亮一さんが書かれた會津藩関連のものや新選組関連のものや高杉晋作さん関連のものの本を読みました。

多分、あんまり意味も解らず読んでいたと思うんですが、そのテレビドラマに出てた歴史上の人物の詳しい情報に触れると興奮したんでしょうね・・・。なんか次々に買って貰っていたような気がします。
ドラマ・田原坂にも出てくる乃木大将を扱った司馬さんの小説「殉死」を買ったのもこの頃だと思います。
多分、というか絶対に意味が解らずに読んだと思いますが、「なんで旗を取られたくらいで死ぬ原因になるのかな!?」とは思ったから、読もうと思ったとは思います。
司馬さんで読んだ事あるのは、新選組の土方歳三さんを扱った小説「燃えよ剣」くらいです(だから司馬史観とか呼ばれるものはわからない)。
これもドラマ・五稜郭の影響で読みました。

またドラマ・奇兵隊を見た影響で高杉晋作さんとかの伝記本を読んでいたので、中学1年の研修旅行で、初めて萩に行った時はホントに興奮しました。
今年の夏頃、何年かぶりに行きました。
まず萩の中で訪れたのは、西南戦争にも関連(!?)しますが、前原一誠さんの旧宅でした。
それから高杉さんちとか桂さんちとか歴史資料館とか巡りました。

巡りながら考えていた事は、高杉さんとか吉田松陰さんとか(もし長生きしていたら)は、伊藤博文さんや山縣有朋さんらが構築した「明治国家・日本」をどう見ただろうな~!?。
明治国家の統治機構のみごとな完成度は、「芸術品としての国家」と言われたらしいが、自分は、民衆の一人として、なんとも言えない気持ちになりますし、悔しい思いもします・・・。
その統治機構のほころびが、早くも明治30年くらいに表れ、そこからあっちにいきこっちにいき、今の自分がいる。
森崎和江さんの言葉に以下のものがありますが、われわれ自身による実験室ありの統合は如何に可能か!?という事を考えます。今、読み返している橋川文三さんが書かれた「柳田国男論集成」の各文章が、考えなければならないという想いにますますさせます。

日本には、人々の統合の本質は民族的優者に対する情念だという感覚が、天皇制と共にしみついている。円錘型感覚の民族である。(民衆の民族的出逢いを)」

(話をタイトルに戻して)
橋川文三さんや渡辺京二さんの言葉に触れて、小学生の時の頃を思い出して、「そうだ、田原坂に行こう!!」と思ったわけです。

特に田原坂に行こうと思ったのは、橋川さんが書かれた「西郷隆盛紀行(この本の中の安宇植さんとの対談・<日本の近代化と西郷隆盛の思想>は、ホントに色んな想いにさせられました)」という本や橋川さん対談集の「歴史と精神」という本の中の前田愛さんとの対談<明治初年代の可能性>や松本三之介さんとの対談<肝胆相照・西郷と海舟>を読んだ事が大きいです。

宮崎兄弟(を知ろうと思ったのは)資料館に行こうと思ったのは(何か今に活かせるものはないか!?、人間の可能性を信じていいんだ!!と自分に言い聞かせるために)、鹿島拾市さんが、アナキズム誌13・14号で書かれた「宮崎滔天の<世界革命>」がきっかけでこの兄弟に興味が湧いて、渡辺さんが書かれた「北一輝」という本の中の<西郷党の落し子>という章で、自分の中でもっと勉強したいという決定的な想いになりました。

まだ読んでいないけど、実際に資料館に行ってから、渡辺さんが書かれた「維新の夢(ちくま学芸文庫)」という本や鹿島さんも上記の文を書く上で参考にしていた上村希美雄さん(宮崎兄弟伝・龍のごとく 宮崎滔天伝を書いた)が書かれた「民権と国権のはざま 明治草莽思想史覚書」という本をまずは読みたいと思っています。

この資料館は、よくありがちな郷土の英雄をまつりあげるようなものではなく、自分にとっては、思想的決断を促す勇気を培養させるような資料館でした。
2階建ての小さな資料館でしたが、展示されているものに興奮して2時間以上いました。
展示されている彼らの言葉が重すぎました。
「自由」・「土地均享 人類の大権」・「革命」etcという言葉の数々に。

特にずうっと見ていたのは、宮崎民蔵さんのコーナーです。
「大逆事件と熊本評論」のとこからは離れられなかったです。
また民蔵さんが購読していたという世界各国の社会主義誌の中に、クロポトキンさんが書かれた
無政府主義の道徳」が、ありました。
(自分が、この本を初めて読んだ時は、何とも言えない気持ちの良さを感じました。)

資料館で買った資料館発行の「宮崎兄弟の世界へ」という本は、まだ読んでいないけど、じっくり読みたいと思っています。


それから田原坂へ。
(画像は、田原坂資料館前)

資料館は、色んなものが展示されていました。

乃木大将(その時は、大将ではありませんが)が、奪われた小倉歩兵第14連隊旗のレプリカも展示されていました。
ここは、資料館の展示物よりも外の「西南の役戦没者慰霊の塔」の薩摩軍と政府軍双方の戦死者の名前と出身地が刻まれた石碑をずうっと見ていました。
薩摩軍よりも政府軍の一兵士は、この戦争をどう考えていたんだろうな!?とか思いました。

また隣にいた彼女は、「この辺に住んでいた人々は、自分が住んでいる所が戦場になった時、どんな事を思ったかな!?」とか言っていました。

この辺りの民衆だけでなく、民衆はこの戦争をどう思っていたんだろうか!?
「御一新」とは!?「近代」とは!?「文明」とは!?「国民国家」とは!?
そして自分は、この「歴史」をどう受け止め、どんな言葉を吐き、どんな事を信じるのか!?

それでは、また。
(gotcha1977)








 





 











2013年10月10日木曜日

11月1日!!!!!

北九州のURBAN HEAD RAWが、MCR COMPANY / HUMAN INSTINCT RECORDS共同リリースで、HUMAN DESTRUCTIONと題された単独作品をリリースするようです。
是非!!是非!!!触れてみて下さい!!!!!

最近、彼女に「今日の夜は、橋川さんですか!?CUBASEさんですか!?」と訊かれます。
また「あんたが、毎日何を考えて過ごしているか!?を知りたいから、読んだ本それぞれにつき、感想文を書け!!」と言われました・・・。

最近、読んでいる(いた)本は、以下のものです。

・橋川文三さん 「日本の百年 7巻(1931年~1937年)アジア解放の夢」
この本には、近代日本(その延長上に今の自分がいる!!)が、行き着く過程が、記述されています。それは、これまた橋川さんが、「近代日本思想史体系2」の中で書かれた<東亜新秩序の神話>にも端的に、そして複雑に!!表れているように、「右でも左でもよい、どんなものでもいいから救世主が必要だ」というものに収斂していく過程(今も続く)の歴史があります。
でも民衆にとって、初原的なもの、真の欲求とは何だったんだろうか!?

・橋川文三さん 「柳田国男論集成」
この本は、、近代日本の歴史の重圧(問題の歴史的困難さ)を受け止めながら、日本人は、プラス/マイナス両面で、人類にどのような歴史的な科学を示すことが出来るか!?という事を考えろ!!という事を促したものだと個人的には思います。
この本の中で、柳田さんが戦後最初に発刊した<先祖の話>の自序(昭和20年10月)の以下の言葉が紹介されています、
「・・・理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。・・・それを決する為にもまず若干の事実を知っていなければならぬ。明治以来の公人はその準備作業を煩わしがって、努めてこの大きな問題を考えまいとしていたのである。文化の如何なる段階に在るを問わず、凡そ是くらい空漠不徹底な独断を以て、未来に対処していた国民は珍しいといってよい。」

竹山道雄さん 「昭和の精神史」
橋川さんが、書かれた「昭和ナショナリズムの諸相」という本の中に、<日本ファシズムの思想的特質>という文があり、その中で、竹山さんの「日本にはファシストはいた。しかし国は、ファッショではなかった。」という言葉が紹介されていて、それはどういう事かな!?と思い手に取ってみました。
(偉そうに聞こえるかもしれませんが)鋭いなぁ~と思う所(特に、この本収録の<若い世代>)は、多々ありましたが、責任性というアモルフを感じます。
それなら、「今、お前は、流され曖昧な日常の中で、どんな責任を果たしてるんだ!?」と言われたら、返す言葉はありませんが・・・。

・渡辺京二さん 「北一輝」
今まで、渡辺さんの言葉には触れた事がなかったのですが、本屋でこの本を立ち読みして、以下の言葉には、この本をじっくり読みたい!!と特に思わされ購入しました。

人類は中世において極端なコミューン原理の社会を経験し、近代において極端な個人原理の社会を経験して来たからこそ、現代においてその綜合をなしとげることができるのだということで、これはつまり人類史の三段階論なのである。その綜合を、個人を完全に生かしきる高度なコミューン原理の社会と考えるところに、北の社会主義者たる本質が存在したのである。(中略して)
どんな種本から思いついたにせよ、しかしこの三段階説はまったく北自身のものとなっている。
それはこのような人類史の解釈が、この青年のいちばん深いところにある欲求を満足させているからである。(中略して)
しかしこの人類史の三段階が、北のイメージのなかで、典型的にはヨーロッパのものとしてとらえられたにせよ、個と共同性との分離を再統一しなければこの生は生きるにあたいしないという感覚は、あとに説くようにあくまで特殊に日本近代のものだったのである。」

ラジカルな共同性の飢渇感>が、なんで<国家の物神化>になり<擬ファシスト>に結びつくのか!?その結びつきをほぐし、<人類>という言葉を吐けるようにするためには!?という解答困難な問いに対して、微かな道筋の一つを提示した本だと個人的には思います。

しかし、この類的存在としての人間の解放という理念には、その底に、いかにも北的な重要なモチーフがかくされていた。それは人間は共同的なものであるべきだという要求で、これこそ彼がおのれを社会主義者とみなした理由の根本であると同時に、彼がのちに擬ファシスト的な転落をたどらねばならなかった、秘密の核心にほかならなかった。(人類史総括の思想より)」

この文章を読んで、転落は果たして彼だけだろうか!?と思います。
それにしても誤解を恐れずに言えば、彼の著作を読んだ青年将校の方々などは、彼の言葉に何とも言えない気持ちの良さをホントに感じただろうな~と思います(天皇に対する想いは、すれ違えど)。
生きられる!!と思った事だろうな~と思います。
こんな言葉、想いを持つとは、自分自身が、何か絶対的なものを求めてる証拠だと思います・・・。
自我が収斂出来る絶対的な何かを・・・。
絶対的な何かとかないはずだと思うんですがね・・・。

そして、色んな本を読んで、その中で紹介されている言葉を読んで、今、ちゃんと読みたい方は、中野重治さんと竹内好さんです。
橋川さんが、書かれた文<日本ロマン派の諸問題>の中で、以下の言葉があります(長い掲載になります)、

戦後、日本ロマン派に関する発言として、的確な問題意識を提示したものは、竹内好の「近代主義と民族の問題」であり、それに対する批判的な、積極的な回答として書かれた中野重治の「第二文学界・日本浪漫派などについて」であろう。
そこで指摘されている共通のことがらとして、なによりも明白なことは、日本ロマン派は決して正当な批判と闘争の果てにたおされたものではないということであろう。

竹内はいうー「マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血ぬられた民族主義をよけて通った。自分を被害者と規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自分の責任外の出来事とした。日本ロマンを黙殺することが正しいとされた。しかし、日本ロマン派を倒したものは、かれらでなくて外の力なのである。外の力によって倒されたものを、自分が倒したように、自分の力を過信したことはなかっただろうか。それによって、悪夢は忘れられたかもしれないが、血は洗い清められなかったのではないか。」

これは、中野の次のような認識につながる。
「つまりそれは・・・日本浪漫派グループの活動が、その性質・内容について完全に取り出されていないということである。戦後の「民主主義」の復活は、この種の民族主義にたいして、戦前、戦争のはじめの時期、こういうグループが排外主義・侵略主義へ走りこむ姿勢を取った時期に、日本の民主陣営・プロレタリア文学陣営のがわが与えた不十分な批判と同等・等価なものを与えただけであって、それ以上立ち入った批判を与えていないということである。批判はいくらか表面的な対症療法に終わっていると見られる。膏薬でおさえはしたが、腫物が切開されていない。病原が正確に決定されないまま今にいたっているため、そのため同じものの同じ形での進行が見られることになったものとわたしは考える。」

それでは、また。
(gotcha1977)












2013年9月12日木曜日

cubaseさんとADさん。

みなさん、どうもお久しぶりです。いきなりですが、
ドラム音源のAddictive DrumsとReel Machinesを取り入れてから一時が経ちました。


インストールして、vstインスト(cubaseさんの)にADさんの名前があり選択があり、鳴らしてみると、興奮しました。
それから、色んなmidi音源を鳴らしたり変化させたり、編集ページやリバーブのページで色々と試していると、面白いです。
最近、mi~何とかの文字を見ると、一瞬midiの事かと思ってしまいます・・・。

ADさんは、鳴らしながらそのまま編集できたり出来るのもいいです。
最近、やっとcubaseさんにも慣れて、色々と試していると面白いです。
色々と音を重ねて試していると、重ねすぎて収拾がつかなくなります・・・。
まぁもっと音を重ねたくてしているんですが・・・。

何か良いループ音源があれば、教えて下さい~!!!!!



最近、勉強のためと言うか参考のために、改めて以下の音楽を聴いています。

・BUCK-TICK  「Razzle Dazzle」 「ONE LIFE,ONE DEATH」
(曲のポップさや生のドラムと打ち込み系のドラムの併用とか細かいノイズ音とかたまりません。)

・CABARET VOLTAIRE 「MIX-UP」
(昔からよく聴いています。)

・DEPECHE MODE  「some great reward」
(聴いているとクセになります。)

・MARK STEWART  「THE POLITICS OF THE ENVY」
(歌詞カードにあるMOST SECRET WARという言葉は、分断支配という状況を表す端的なものだと思います。)

・UNDERGROUND RESISTANCE  「INTERSTELLAR FUGITIVES」
(デトロイトテクノと言われるものですが、こういうどういう意識(決まりきったような政治的な意識というものではなく、自分自身の意識から始めるものと言うか・・・。)を持って音楽をしているか!?を明確に持っているものには、どうしても魅かれます。
このアルバムの歌詞カードに<語られることのない現実 by 名もなき記述者>という言葉があり、ホントにきます。)

・CHUMBAWAMBA  「TUBTHUMPER」
(特にthe good ship lifestyleという曲は、自己省察を促すような歌詞も曲の展開もボーカルの歌い方もいいな~と思います。)

 

それでは、また。(gotcha1977)


 






 

2013年8月14日水曜日

cubaseさんについてとか色々。

みなさん、お久しぶりです。
いかがお過ごしでしょうか!?
暑い日々が続いていますね。
最近は、皮膚の状態もホントに良くなり、肌着に血がつく事もなくなりました。
痒みでイライラする事もなくなりました。

最近、夜はcubaseさんと過ごす時間が多くなりました。


まだまだ解らない事だらけです。
Rちゃんが言っていた通りだなぁ~とつくづく思わされます。
まぁ一つ一つやっていきながら、覚えていくしかないんですが。
Rちゃんが言っていたように、日をあけずにしないと忘れたりします。
一つの事を調べるだけで、2、3時間がアッという間です。

まだ「楽しい~」という感じにはなれないけど、唄いたい事があるから、やるしかないんです。
この言葉は、めげてしまいそうになる自分に言い聞かせています・・・。
マイクを持てる日は遠いなぁ~と思い焦ったりもします。
頼むから、自分にマイクを持たせてくれ!!、自分自身よ!みたいな感じです。

何かの設定をいじって、音が出なくなると(よくある事らしいですが)、「あ~もぉ~」となります。
元々、パソコンの操作自体も得意ではないけど。
と言うか、そもそも自分に「得意」な事とかあったけ!?
出来ない事だらけに、不得意な事だらけ。
自分にあるのは、うまく言えない衝動だけ。

最近、バンドと言うものを始めて以来、初めて!楽器屋さんのホームページをよく見ます・・・。
ドラム音源が欲しいな~と思ってるんです。
Addictive Drumsというドラム音源が欲しい。そして専用の拡張音源のエレクトリックドラム(所謂、打ち込み系)に特化したReel Machinesが欲しい!!
欲しいというか必要だな~と思っています。



(またまた)最近、本は(これまた継続的にと言うか離れられなくなり)橋川文三さんの以下のものを繰り返し読んでいます。

橋川文三さん
・「昭和ナショナリズムの諸相」
・「政治と文学の辺境」
・「西郷隆盛紀行」
+図書館にあった橋川さんの他の文章

上記の本を読んでいると、これまた橋川さんが書かれた文章「戦後世代の精神構造」の中の以下の言葉を強く意識させられます。
近代日本の歴史の重圧をハッキリとうけとめ、それへの対抗価値として自己の様式を実現しようとする意識・・・」

人間の意識、主体の意識、責任の意識、歴史意識、自立の意識・・・。

また「政治と文学の辺境」の本の中に収録されている<太宰治論>という文章の中の以下の言葉は、何回も繰り返し読み返しています。
長くなりますが(もし良かったら最後まで読んでみて下さい)、掲載します。

「1930年ごろに始まる現代日本の暗い谷間の時期が、日本人の精神に刻みこんだ自己喪失の絶望感は、今かえりみてもなお人を慄然とさせるほどに凄まじいものであった。
凡そ人間がこの世の中になんら信ずるに値する価値も思想も制度もありえず、それらと結びついた安定した社会も人間関係もありえないことを身をもって知ったとき、そこにいかに奇怪、異常な錯乱が生じうるかを極限的に展開してみせた時代が、ここにいう<昭和十年代>にほかならなかった。
それは別の意味でいえば、日本にはじめて<近代>の錯乱が始まったということもできよう。古風な約束のすべてが無効であることが、まず政治の伝統的様式の解体としてあらわれたのち、安定した政治の定型に究極的に依存していた人間存在の意味もまた、一切の既存の枠を超えて解体、氾濫し始めた。人間存在の意味を解釈する様々な知的体系は当然無効となり、<イデオロギー>と<思想>はその根拠を失って異様な空虚の中に拡散するほかなかった。もし近代日本に、<実存主義>という現代的性格をおびた思想が自主的に発生しえたとするならば、それはこの時代においてはなかったとされる所以である。
鶴見俊輔の思想史的解釈にならばしたがう「村上知義、高見順、太宰治、埴谷雄高、椎名麟三、三好十郎らの転向文学が、日本における実存主義の最初のあらわれである」ということになる。
                                   
つまり、これらの文学者は、いずれも人間存在の正当性をなんらかの意味で保証したさまざま既存原理の廃墟に立って、しかもなお生きることをつづけねばならないのは何故か、という問いに答えようとした文学者だったということである。
今あげた人々の名前につけ加えるならば、たとえば石川淳も、堀辰雄も、坂口安吾も、竹内好も、武田泰淳も、そして今もなお無名のさまざまな人々もまた、その同じ問いの前に、それぞれの死力をつくして直面したはずである。
何もむずかしい問題ではない。
この<ひでぇ時代>にどうしたら<正義>の生命が可能であるかという問題に、彼らが素樸・剛毅に直面したというだけのことである。」

ヤツラがいう<政治>やなんやらかんやら、よく解らんものより、<われわれ>自身の根源的な空洞(われわれ自身の思想原理の欠如)を意識して、その中でこそ、もっと根源的なものを
聞かせて欲しい、見せて欲しい、語って欲しい。
もっと根源的なものを聞かせたい、見せたい、語りたい。
そういう<われわれ>自身の交換を信じたい。
そう信じさせてくれる思考、言葉、行為、関係性は溢れていると思う。

それはまた、自分は何に忠誠意識を置くのか!?という問題だろうと思います。
橋川さんが書かれた文章「忠誠意識の変容(近代日本思想体系1収録)」の中に、以下の言葉があります、明治の民権意識の中にはこういう側面があったという意味で(しかし!!その後の民権意識の問題は今なお続くわれわれ自身への問いだと思う)、
人民の忠誠心は、人民そのものに志向される・・・」

この言葉は、<力の再配置>という問題だと思います。
Oさんが吐いた言葉、「人を動かし動かされる主体形成の力を・・・」と思います。

どんな事があっても、この事だけは信じたい。
それが自分にとって生きるという事だと思う。
そしてもっと生きたいと思う。
これは、「政治」や「経済」や「グローバル」や「現実」や「選挙」とかなんやかんやの中で、理想的すぎるんでしょうか!?
したり顔で、政治や経済やグローバルや現実なんか語る言葉にドキドキなんかしないし、つまんねぇ~と自分は思います。
「人間」の自由や可能性とかそんなものではない!!と強く思い信じています。

でも「そんな不確かな事では、飯は食えないだろ!?信じられるの!?生きられるの!?」と言われたら、そういう言葉に拮抗出来る言葉が、自分の中にないのも事実ですが・・・。

最近の音楽は、このアルバム(1st アルバムと合わせて)を繰り返し聴いています。
「失われた怒り」というものを思い起こさせて頂きました。

http://mukofungoj.sanpal.co.jp/bando/4881

特にこの時期は、戦争や原爆や平和という言葉が溢れるけど、そんな時は、Nさんがアナキズム誌3号で吐いた以下の言葉を、特に思い出します。
戦争に反対するということは即ち、国家に従わない、より明確に言えば、国家に叛逆するということ・・・」

また吉本隆明さんが、1973年6月の情況の発言の中で吐いた以下の言葉を思い出します。
この<平和>な日常性に<戦争>を視る方法をもたないものが、どこで<戦争>をみつけることができよう。」

また吉本さんが吐いた以下の言葉も思い出します。
現在の強制的な平和は人間にたいして、どんな生き方も卑少であり、どんな事件も卑少であり、それを出口なしの状態で日常的に耐えながら受けとめ、そこから思想の課題を組みあげるということを強要している。(戦後思想の荒廃)」

それでは、また。(gotcha1977)


 
 
 

2013年5月21日火曜日

無題。

「橋川:僕はそれで思い出すんですが、昭和19年にぼくらの仲間に詩人の宋左近がいましてね、かれの召集で送別会をやったんですよ。その席でわれわれにとって基本的な前提は何かということで、つまり人間として世界を見るというのと、日本人として世界を見るというのとで、大学生のよくやる形而上学の議論になって、何か非常にグロテスクといっていいような、しかしかなり深刻な場面が展開したわけです。宋左近はフランス文学ですから、仲間には白井健三郎もいましてね、かれらは人間が前提だという言い方をする。しかし、人間が前提だというのは抽象論でいわば近代主義だというのが僕なんかみたいな浪漫派の連中ですよね。それで大論争になったんですが、戦後の今のナショナリズムの問題も、いつかその問題にぶつかるという可能性もありそうで、30年というとちょうど1サイクルだから、あと10年ぐらいもすると、そういう場面がでてくるかもしれないという変な感じもしますね。そういう問題設定がこんなに開かれた日本社会で起こるはずはないと思うのが普通なんですが、それだけではあまり保証にはならない。戦前だって、かなり開かれていたわけです。世界のあらゆる文化も・・・・・・。(橋川文三さん、鮎川信夫さん対談.<体験・思想・ナショナリズム>1976年より)

よく「偏った思想は、危険」とか聞いたり言われたりするけど、自分は、生まれてからこのかた、<日本人>・<男>という思想に偏っているだけでなく、足の先から頭のてっぺんまでドップリ漬かって生きている。
<個>であることではなく、<個>になること・<人間>であることではなく、<人間>になることは、吉本隆明さんの言葉を借りれば、「おおきな否定とのり越え」を必要とすることだとつくづく思わされます。
自虐とか、いかなる政治人がどうのこうのとかではなく、ましては仕方がなかった事といった無責任極まりない事ではなく、これは<人間>になりたい!!と言うオノレ自身の衝動の問題だと思います。

そして以下の様々の言葉は、オノレ自身への問いとして。

敗戦は、大衆に平和をのぞませた。が、それ以上の意識性を生んではいない。加害の相手方にたいする、あるいは戦ったことにたいする自己の責任を問うことはない。むしろ国家権力の被害者であったと感じることで、自己の歴史の一切を、歴史の総体から分離して救いうるのである。その個の意識構造のなかに、責任の論理が欠落していることこそ、私には、日本伝来の土民生活体が生んだ精神性だと思っている。戦争犯罪は、上はテンノウヘイカから下は憲兵さんに至るまで、いや行政官も植民地生まれの少女も、日本という民族意識の総意に対して、個的責任を問われたことはないのである。戦犯で処罰された者の誰がその刑を自己の思想性と対応させて判断しただろう。民族のギセイになったとしか考えてはいないのだ。個別責任を問われることのない共同体感覚の永続性を民衆がいかに願っているかは、敗戦ののちの近代化の進展が、血縁地縁共同体から核家族へとその生活の基本を分断させるとただちに、前近代的組集団(親子分集団)へ参加するか世界連合的な有形無形の意識へ加盟してしまったことにもうかがえる。この日本民衆の体質のあらわれは、日本人の転向の本質にもつながっているのである。(森崎和江さん・媒介者の思想)」

日本の体質にぬりかためられている互いの根源へかいくぐり、今日を生き合うための、反日本的体質を育て合う。(森崎和江さん・活字のまえ、活字のあと)」

わたしは、にほんでにほんの民衆のなかに正攻法に転化し得るものを探し歩いているのです。(森崎和江さん・訪韓スケッチによせて)」

いまは私たちはいちずに自己を問わねばならない。過去の非をみずから責めるためだけではないのである。あのようなアジア進出以外のどのような意識の型を、日本人民衆はその生活の伝統のなかから生みうるかを問わねばならないからである。そのことをぬきにしたアジア民衆の政治的次元における連帯などは、私にはボタ山をころげおちる石くれほどの重さにも感じとれない
(森崎和江さん・民衆意識における朝鮮人と日本人)」

私たちは、なんどでも、疑いようのない歴史的事実の前に立つべきではないか。それは、日本帝国主義を倒したものが日本人民の中の誰でもないという事実である
(橋川文三さん・抵抗責任者の責任意識)」

私たちは百年の日本近代史を多面的にくりかえし学びかえし、その全体についての責任を己のものとする立場を確立せねばならぬという以外にはない
(橋川文三さん・日本ロマン派の諸問題)」

否応なく、日本人と規定されながら、流されながら生きている。
ヒューマニティーの彼方の景色が見たい。信じたい。唄いたい。
それにしてもCRASSが吐いた「THERE IS NO AUTHORITY BUT YOURSELF」という言葉は、日本的な共同幻想の元において、ホントに重いものだと改めて思います。



それでは、また。
(gotcha1977)

2013年4月24日水曜日

今日も無題。

近くで家を造っている方々がいる。
その家を造っている何かの音、鼓動。
その音、鼓動は、自分の鼓動とあまりにもかけ離れていると思う。うまく言えないその重さに。
窓から見えるのに・・・。
それは、例えば「友人・彼・彼女」と呼んだり呼ばれたりするものと同じかもしれない。
それは、先日久しぶりに会ったRちゃんの何気ない言葉にも感じます。
そんな事をうまく言えないんですが、漠然と思ったりします。
と言うかずうっと思っていたい。そういう自分の中の漠然としたそういう思いが無くなるのが恐い。

先日の投稿で、吉本隆明さんの「大衆のナショナリズムの核」という言葉を掲載しましたが、その言葉には、上記に書いた漠然とした思いに対して、ゆれるように生活し、死ぬという大衆の一人として勇気づけられます。

生涯のうちに、じぶんの職場と家をつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の<ナショナリズム>の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに値する。ここに<自立>主義の基盤がある。(日本のナショナリズム)
より」

最近は、パンクスの友人のお薦めのRHYMESTERの「ダーティーサイエンス」と「POP LIFE」というアルバムをずうっと繰り返し聴いてます。
薦めてくれた彼は、最近、CONTORTUREというバンドの「WHO'S IN CHARGE」!!!!!というタイトルをつけたアルバムを共同でリリースしています。
彼が、なぜこのアルバムをリリースするようになったのか!?という想いを自分なりに考えながら、じっくり聴きたいと思います。
http://acclaimcollective.blogspot.jp/2013/04/acclaim-new-releases-contorture-whos-in_5.html

ライムスターを聴いての感想。
よく「こんな時代だから」とか「危機」とか言われたりするけど、それはいつもなんじゃないかな~と思います。
たまに聞く「ピンチをチャンスに!!」とか好きではないと言うか、それは誰にとってピンチなのか!?量の問題なのか!?そういう「計量的発想(辺見庸さんの言葉)」こそが、無責任ではないのか!?と思います。
高度成長期の時にだって、<われわれ>にとってピンチはそこらじゅうにあったと思います。
見ない死というものが。それは、今も。

例外状態が常態」と言ったのは、カール・シュミットさんでしたっけ!?

だからこそライムスターの以下の歌詞は、きました。
どきなリアリスト 失せろニヒリスト リリシストのお通りだ
この世界はコトバを欲してる 誰かの言う通りだ(ゆめのしま)」

要らねぇ安い共感 だけどハマリたくもねぇ無常感(スクリーム)」

誰かの尻馬乗っかってばっか キミも誰かを裁くか?(The Choise is yours)」

またPOP LIFEというアルバムに対するインタビューの彼らの言葉を読むと、以下の事を思わされます。
よく「リアル」とか「レベル」という言葉が使われているけど、何かをやっているからリアルとかレベルとかに違和感が凄くあります。
リアルとかレベルとかどこにでもある。
もっと見なければ、見尽くして見尽くして、それに自分なりに応答しろ!!と彼らの歌詞を読むと思わされます。

吉本隆明さんの言葉に以下のようなものがあります、
愚劣な<前衛>的コミュニケーションをやめるがよい。もしも、わたしたちが選ばねばならなかったものがあったとしたら、まず先験的に日本資本主義社会そのものであった。つぎに何をえらんだのだ?たくさんの現実的事件と、自分の遊戯や勉学や貧困や生活であった。そうして、つぎに何を選んだのだ?いっこうに変りばえもしないこの現実であった。(前衛的コミュニケーションについて)」

人は他者によって作られた自分に責任を負わなければならない。それが虚像であるばあいも真実の所在する場所だからだ。そしてこのばあい虚像であるかないかはどうでもいいことで、真実の所在する場所ということが重要なのだ。(世界認識の方法のあとがき)」

それにしてもライムスターのダーティーサイエンスを購入してから、特に「It's A New Day」と「The Choise is yours」は、歌詞を読みながら繰り返し繰り返し聴いています。
「The Choise~」を聴いていると、橋川文三が言った意味での「歴史意識・歴史責任」という言葉が重なります。
またアナキズム誌10号で、川田功さんが書かれた「映画<ボスニア>の彼方へ」という文章を読み返したくなります。

「われわれ」を萎ませている無責任な自分だけど、<ヤツラ>の言葉を聞くと悔しくてたまらなくなる。アナキスト和田久太郎さんが言った「身を益なきものと思いなす」と正直思ったりもする。ビビりだけど・・・。
ビビりだから、和田さんが言った「弱き者よ、その弱さに徹せよ」がきます。

それでは、また。
(gotcha1977)