2011年3月3日木曜日

私たちのすぐ目の前に恥辱があるのです(ドゥルーズさん)。

みなさん、お久しぶりです。
最近の自分の想いです。

原爆、皇帝パレード、領土、国家、自由貿易、選挙、スペクタクル、えとせとら、あーえとせとら。

平和と戦争、自由と監禁は一直線上に。

今日のタイトルにも掲載させて頂きましたが、最近はドゥルーズさんの「記号と事件(河出文庫)」・「スピノザ、実践の哲学(平凡社ライブラリー)」という二つの本を読み返してます。

その二つの本の中で「可能的なものを求めよう、そうでなければ窒息してしまう」と改めて思わされる言葉があります。

「私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかり考えている。生をあげて私たちは、死を礼讃しているにすぎない(スピノザ、実践の哲学より)」

「ひそかに何かをする人たちがいるのかどうか、私もひそかに自分の仕事をしているのかどうか、そしてそこには出会いがあるのかどうか、偶然は、偶発的な事件はおこりうるのかどうか、ということだ。だから同調したり、付和雷同したりするような、ひとりひとりの人間が他人に良心の呵責をおぼえさせ、他人を矯正する立場に立たされるような、そんな糞のような状況はどうでもいいんだ。私は君たちに何の借りもないし、君たちも私に借りがあるわけではない。私が君たちのゲットーに出向く道理は見当たらない。何しろ私には私専用のゲットーがあるから。問題は特定の排他的集団の性質には関係なくて、特定のものが産み出す効果を、他の手段によって産み出すことができる、そんな横断的関係にかかわっているんだ。(記号と事件より)」

それにしても「世界の存在を信じる」ために、PROTESTERAとFROM THE DEPTHS/NEXT VICTIMの作品と言う名の武器を手にするのを楽しみにしてます、同志よ。
    
「世界の存在を信じることが、実は私たちに一番欠けていることです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。世界を奪われてしまった。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる<事件>を引き起こしたり、あるいは面積や体積が小さくても構わないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。(記号と事件より)」

それでは、また!!
(gotcha1977)