2013年8月14日水曜日

cubaseさんについてとか色々。

みなさん、お久しぶりです。
いかがお過ごしでしょうか!?
暑い日々が続いていますね。
最近は、皮膚の状態もホントに良くなり、肌着に血がつく事もなくなりました。
痒みでイライラする事もなくなりました。

最近、夜はcubaseさんと過ごす時間が多くなりました。


まだまだ解らない事だらけです。
Rちゃんが言っていた通りだなぁ~とつくづく思わされます。
まぁ一つ一つやっていきながら、覚えていくしかないんですが。
Rちゃんが言っていたように、日をあけずにしないと忘れたりします。
一つの事を調べるだけで、2、3時間がアッという間です。

まだ「楽しい~」という感じにはなれないけど、唄いたい事があるから、やるしかないんです。
この言葉は、めげてしまいそうになる自分に言い聞かせています・・・。
マイクを持てる日は遠いなぁ~と思い焦ったりもします。
頼むから、自分にマイクを持たせてくれ!!、自分自身よ!みたいな感じです。

何かの設定をいじって、音が出なくなると(よくある事らしいですが)、「あ~もぉ~」となります。
元々、パソコンの操作自体も得意ではないけど。
と言うか、そもそも自分に「得意」な事とかあったけ!?
出来ない事だらけに、不得意な事だらけ。
自分にあるのは、うまく言えない衝動だけ。

最近、バンドと言うものを始めて以来、初めて!楽器屋さんのホームページをよく見ます・・・。
ドラム音源が欲しいな~と思ってるんです。
Addictive Drumsというドラム音源が欲しい。そして専用の拡張音源のエレクトリックドラム(所謂、打ち込み系)に特化したReel Machinesが欲しい!!
欲しいというか必要だな~と思っています。



(またまた)最近、本は(これまた継続的にと言うか離れられなくなり)橋川文三さんの以下のものを繰り返し読んでいます。

橋川文三さん
・「昭和ナショナリズムの諸相」
・「政治と文学の辺境」
・「西郷隆盛紀行」
+図書館にあった橋川さんの他の文章

上記の本を読んでいると、これまた橋川さんが書かれた文章「戦後世代の精神構造」の中の以下の言葉を強く意識させられます。
近代日本の歴史の重圧をハッキリとうけとめ、それへの対抗価値として自己の様式を実現しようとする意識・・・」

人間の意識、主体の意識、責任の意識、歴史意識、自立の意識・・・。

また「政治と文学の辺境」の本の中に収録されている<太宰治論>という文章の中の以下の言葉は、何回も繰り返し読み返しています。
長くなりますが(もし良かったら最後まで読んでみて下さい)、掲載します。

「1930年ごろに始まる現代日本の暗い谷間の時期が、日本人の精神に刻みこんだ自己喪失の絶望感は、今かえりみてもなお人を慄然とさせるほどに凄まじいものであった。
凡そ人間がこの世の中になんら信ずるに値する価値も思想も制度もありえず、それらと結びついた安定した社会も人間関係もありえないことを身をもって知ったとき、そこにいかに奇怪、異常な錯乱が生じうるかを極限的に展開してみせた時代が、ここにいう<昭和十年代>にほかならなかった。
それは別の意味でいえば、日本にはじめて<近代>の錯乱が始まったということもできよう。古風な約束のすべてが無効であることが、まず政治の伝統的様式の解体としてあらわれたのち、安定した政治の定型に究極的に依存していた人間存在の意味もまた、一切の既存の枠を超えて解体、氾濫し始めた。人間存在の意味を解釈する様々な知的体系は当然無効となり、<イデオロギー>と<思想>はその根拠を失って異様な空虚の中に拡散するほかなかった。もし近代日本に、<実存主義>という現代的性格をおびた思想が自主的に発生しえたとするならば、それはこの時代においてはなかったとされる所以である。
鶴見俊輔の思想史的解釈にならばしたがう「村上知義、高見順、太宰治、埴谷雄高、椎名麟三、三好十郎らの転向文学が、日本における実存主義の最初のあらわれである」ということになる。
                                   
つまり、これらの文学者は、いずれも人間存在の正当性をなんらかの意味で保証したさまざま既存原理の廃墟に立って、しかもなお生きることをつづけねばならないのは何故か、という問いに答えようとした文学者だったということである。
今あげた人々の名前につけ加えるならば、たとえば石川淳も、堀辰雄も、坂口安吾も、竹内好も、武田泰淳も、そして今もなお無名のさまざまな人々もまた、その同じ問いの前に、それぞれの死力をつくして直面したはずである。
何もむずかしい問題ではない。
この<ひでぇ時代>にどうしたら<正義>の生命が可能であるかという問題に、彼らが素樸・剛毅に直面したというだけのことである。」

ヤツラがいう<政治>やなんやらかんやら、よく解らんものより、<われわれ>自身の根源的な空洞(われわれ自身の思想原理の欠如)を意識して、その中でこそ、もっと根源的なものを
聞かせて欲しい、見せて欲しい、語って欲しい。
もっと根源的なものを聞かせたい、見せたい、語りたい。
そういう<われわれ>自身の交換を信じたい。
そう信じさせてくれる思考、言葉、行為、関係性は溢れていると思う。

それはまた、自分は何に忠誠意識を置くのか!?という問題だろうと思います。
橋川さんが書かれた文章「忠誠意識の変容(近代日本思想体系1収録)」の中に、以下の言葉があります、明治の民権意識の中にはこういう側面があったという意味で(しかし!!その後の民権意識の問題は今なお続くわれわれ自身への問いだと思う)、
人民の忠誠心は、人民そのものに志向される・・・」

この言葉は、<力の再配置>という問題だと思います。
Oさんが吐いた言葉、「人を動かし動かされる主体形成の力を・・・」と思います。

どんな事があっても、この事だけは信じたい。
それが自分にとって生きるという事だと思う。
そしてもっと生きたいと思う。
これは、「政治」や「経済」や「グローバル」や「現実」や「選挙」とかなんやかんやの中で、理想的すぎるんでしょうか!?
したり顔で、政治や経済やグローバルや現実なんか語る言葉にドキドキなんかしないし、つまんねぇ~と自分は思います。
「人間」の自由や可能性とかそんなものではない!!と強く思い信じています。

でも「そんな不確かな事では、飯は食えないだろ!?信じられるの!?生きられるの!?」と言われたら、そういう言葉に拮抗出来る言葉が、自分の中にないのも事実ですが・・・。

最近の音楽は、このアルバム(1st アルバムと合わせて)を繰り返し聴いています。
「失われた怒り」というものを思い起こさせて頂きました。

http://mukofungoj.sanpal.co.jp/bando/4881

特にこの時期は、戦争や原爆や平和という言葉が溢れるけど、そんな時は、Nさんがアナキズム誌3号で吐いた以下の言葉を、特に思い出します。
戦争に反対するということは即ち、国家に従わない、より明確に言えば、国家に叛逆するということ・・・」

また吉本隆明さんが、1973年6月の情況の発言の中で吐いた以下の言葉を思い出します。
この<平和>な日常性に<戦争>を視る方法をもたないものが、どこで<戦争>をみつけることができよう。」

また吉本さんが吐いた以下の言葉も思い出します。
現在の強制的な平和は人間にたいして、どんな生き方も卑少であり、どんな事件も卑少であり、それを出口なしの状態で日常的に耐えながら受けとめ、そこから思想の課題を組みあげるということを強要している。(戦後思想の荒廃)」

それでは、また。(gotcha1977)