2012年10月19日金曜日

色んな「言葉」の紹介。

私たちは伝統的に作られそして創ったところの民衆の体質を、支配権力によって彼らの原理貫徹のために使わせることを拒否しなければならない。支配権力とは観念ではなくて、私たちの体質を媒体として現象するところの社会的な諸機構である。この重層した現象形態をあらゆる機構に発見することが重要だ。それは学生ごのみに言うなら自己否定、労働者ごのみにいうならば自己肯定の形而上下における深化である。それは私たちの自律性が私たちの他律性をうちやぶる道であり、また、私たちの組織づくりが日本式国家ふうな内部構造をとらぬ道の発見である。」
(森崎和江さん・民衆的連帯の思想)

<自立>と<日本的な共同幻想>。そして<われわれとは何か>という事だけを足りない頭で自分なりに考えています。
少なくとも何かを表現しようとしている者の端くれとして、どれだけ自分なりに「責任ある主体」(辺見庸さんの言葉)として「言語的挑戦」(辺見庸さんの言葉)が出来るのか!?
この日本的な共同幻想の元で、自分の中にある切迫感が狂おしくそれを求めている。

<私>という単独者を責任ある主体にする契機・・・」
(辺見庸さん・瓦礫の中から言葉を)は、どこにでもあり、一人一人の中に異質な切迫感があり、一人一人の中に異質な最前線があり、一人一人の中に異質な日常生活がある。
それが、どう溶けだしドロドロと絡み合い(自明ではない)普遍化と言うものが生まれるのか!?

今日のタイトルにいきます。
上記のような事を考えるうえで、自分への問いとして、念頭にある色んな言葉を以下に。

「日本の民衆は日本の支配権力の歴史と無縁にその伝統を保っているのではない。したがって支配権力を打ち倒せば、その権力に内存していたもろもろの悪は、プチブル的な民族性を最後に消滅するといったものではありえない。階級的矛盾の根源は、各民族固有の支配被支配の相関関係に内存している。資本主義的な階級の矛盾が一応の解決をみたとしても、民衆の集団的意識の傾向を規制した固有の歴史は、それ自身のなかから階級的矛盾を固有に再生産する。その再生産の固有性が他民族間での主要な問題となるのである。」                  (森崎和江さん・媒介者の思想)

日本社会の二重性は、民衆に条件つきの自治性と支配権力への随順とをしみこませている・・・」
(森崎和江さん・民衆意識における朝鮮人と日本人)

忘却的な無思想性と無自覚な伝承性によって支えられる集団的機能・・・」
(森崎和江さん・民族的固有性とは何か)

現在かんがえられる共同幻想の高度な水準は依然として国家というものにあります。」
(吉本隆明さん、国家・家・大衆・知識人)

あらゆる国家は、その成員にふさわしい国家本質としてしか現象しない。」
(吉本隆明さん・情況とはなにか)

真に<他界>が消滅するためには、共同幻想の呪力が自己幻想と対幻想の内部で心的に追放されなければならない。」
(吉本隆明さん・共同幻想論)

民衆の意識の底部に反動思想のもっとも高く、もっとも鋭い反映であるとともに、同時にそこから未来を目指す胎児がどのような生理機能でも名づけることのできない初発の運動を営んでいる地点があるはずだ。」
(谷川雁さん・幻影の革命政府について)

上記のような言葉とともに以下のような本や文を最近読んで、全然すっきりせずにますます訳が分からなくなるんですが、避けられない。なぜなら今まで自分は、あまりにも単純化しすぎていた・・・と痛感しています。
燃えるものではなく、解らないものに身を沈めていたい。
すぐに何かを誤魔化し、何かで誤魔化されるサイクルの中。
核心的な何かを掴めず、こぼれ落ちているたくさんの何かがある。
ただ一つ強く思っている事は、閉じられていくものを何としても開かなければという変わらぬ想いだけです。
<にんげん>は、国家や国家的なものをどうしても求めてしまうものなんでしょうか!?


・橋川文三さん 「日本浪曼派批判序説」
・後藤総一郎さん 「天皇制国家の形成と民衆」
・新川明さん 「非国民の思想と論理ー沖縄における思想の自立についてー」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/wo-arakawa.htm

・川満信一さん 「沖縄における天皇制思想」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/wo-kawamitsu.htm

・谷川雁さん 「日本の二重構造」
・吉本隆明さん、赤坂憲雄さん 「天皇制の基層」

また、Oさんが自身のブログで書かれていた以下のような言葉は、強く痛感させられました。

私たちと他者の、それぞれの存在の「意味の落差」を覆い隠してしまうような言葉の一致、さらには、その言葉の一致の裏に、私たちに理解できる範囲の動機や理由から言葉や行為へと至る直通経路ばかりを求める態度が溢れている。そしてしばしば「政治的な映画」がそういう安直な欲求に答えてもいる。」

自分にとって、映画を<音楽>に置き換えると、まさに自分の事だと思いました。
それこそが、国家的な言葉、国家的な思考、国家的な行為、国家的な関係性を常に産んでしまう体質が自分の中にあるということであります。
そしてそういうものが、自分の言葉や思考そのものを貧しくしているんだと思います。
それは果たして自分の日本人性からくるものなんだろうか!?どうなんだろうか!?
でもはっきりしているのは、自分の中における<共同性>のイメージが自由ではないという事か!?
また谷川さんが言うような「地点」、力のありようを見ることをせずに、すぐに<あっちとこっち>を線引きする。これこそが自分自身の愚劣というものではないのか!?

そんな事を考えていますが、みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
自分は、皮膚の状態がまた良くなく体調を崩していた時期があり、医者から「また逆戻りしているから、完治するまで気を抜かないように」とか言われたり、自分の身体を見ると不安になったり、落ち込んだりしたんですが、今月に入ってから皮膚の状態が今まで一番良くなってきて、段階を踏んで完治に向かっているようです。
今週は、TKさんとRちゃんちに行き、新しい機材についての相談をする予定です。
機材の相談だけでなく、久しぶりに会えるのが楽しみです。
そういう事が出来る体調に自分もなってきたし、TKさんも退院したので、また少しずつ動き出したいですね。

そう言えば、先日、長崎に帰省(とは!?)して、長崎くんちを久しぶりに見ました。
神社から神輿が、お旅所と言う所に行く行列を見ている時に、周りの人々が手を合わせお辞儀をする光景を見て、これは何だろうな~と。
隣にいた彼女は、「あんたが嫌いな模様がついてるよ」と笑ってましたが。
いいとか悪いとか天皇制イデオロギー云々ではなく、日本人の美意識とか死の観念とか信仰とか情念とかその何となく続いているものは何だろうな~と。

突き詰めれば、日本的な共同幻想の問題だと思います。
つまりは、自分自身の問題。
そういう事を考えているから、自分はそういうものから自由であり相対化していると思うのもこれまた愚劣だ!!と自分に言い聞かせます。

これは、日本浪曼派批判序説の本の中に収録されている小林秀雄さんの「私小説論」を論じた<社会化した私をめぐって>と<転形期の自我>を読んで考えさせられた事でもあります。
近代の日本が(その前からその素養があったといえ)行き着き、今も続く病理がここにあると思うので。
小林秀雄さんが提唱した日本的な美の感性(=死の感性、靖国神社に通じるものだと思います)を拒否したいから、直接に読んでみたいと思いました。
でも以下の小林秀雄さんの言葉は、痛感させられました
芸術作品を一般社会関係に還元する戦の困難を深刻に悟れ」。
でも悟りすぎると、美に沈殿するしかないのかな~と思うし、やはり耐えるという事をするしかないと思います。

長くなりました。それでは、また。
(gotcha1977)