2016年3月6日日曜日

Dischargeの曲名じゃないけど、WHY WHY WHY BUT WHYで溢れる日常。

先日の投稿に続けて、3月に入って間を空けずにの投稿です。
みなさん、こんばんは。

今日も、人間(!?)としての暖かさや嬉しさや優しさや切なさがありますが、そういう想いもすぐに何かによってなくなるのだろうか!?
誰かを想う気持ちとかかき消され、何かに委ねるのだろうか!?


山城むつみさんの「連続する問題」という本のなかに<終戦記念日に連続する問題>という何度も読み返す文章があります。
その中で、こういう一節があります。
実際には、戦時下にあっても人々は合理的な思考を多分に持っていたのであり、合理的な思考を保ったまま幻想に踊らされたというところにこそ厄介な問題があるのだ。」

今も連続しているこういう問題、日常は、なぜなんだろうか!?
なぜなんだろうか!?
どうしたら抜けられるんだろうか!?

国家や秩序や民族とか、そんなに魅力があるのだろうか!?
どうなんだろうか!?

アナキスト和田久太郎さんは、
弱き者よ、その弱さに徹せよ」と言う想いをある文章で書いていましたが、彼が生きていた時間から連続している今、この瞬間の日常にかき消される想いなんだろうか!?


最近、こういう暴力がありましたね。
http://oidashisuruna.blogspot.jp/
正に、Dischargeのstate violence state control。
暴力とは何なんでしょうか!?
こういう暴力を容認して(普段は、泣けるとか切ないとか言う言葉が溢れる日常で)自分自身が造っている共同幻想とは何なんでしょうか!?

あるパンクスの友人は、こういう事をアナキズム5号で書いています、
基本的に弾圧とは、それが一人に対するものであっても皆への弾圧だ、と受け止めるべきである。」

こういう原則は、守られるべきものだと思います。

少し前まで、こういう暴力に対して、少しはもっと敏感だったはずなのに、最近鈍感になったと思います。
(これまたパンクバンドですが)DOOMの曲名じゃないけど、正にPOLICE BASTARDは、自分自身だ。

そんな今日の音楽は、久しぶりにCONFLICTのincrease the pressureです。
高校生の時に、このアルバムを聴いて、こういう人間(なのか!?)になりました。
その時の衝動に反する生き方だけはしたくない。その時の衝動に対する立ち方だけはしたい。
それにしてもただ悔しい。

(またまた)それにしても、他のクニの動きや音楽やなんやらで、燃える!と言う想いになる前に、そういう言葉を吐く前に、この地に連続している、自分自身に連続しているものをもっともっと凝視すべきなんだと思います。
そういう意味で、辺見庸さんの「1937」を読みたいな~と思っています。

それでは、また。
(gotcha1977)













2016年3月1日火曜日

いや~嬉しい!!。後半はガラリと変わりますが。

みなさん、かなりお久しぶりです。
久しぶりの投稿ですが、今日は、前半は、いつもと全然違う趣向の投稿になります。

結構前の先日の土曜日、久しぶりにスポーツ新聞を2紙も買いました。
なぜか!?
それは、自分が中学・高校を過ごした出身校が、久しぶりに「センバツ」出場が決まったからです!!

夏は、一昨年も17回目の甲子園に出ましたが、春はホントに久しぶりなので嬉しかったです。
というか小学生の時から、この高校の野球部のファンで、どんな大会でも今でも一喜一憂しています。
中等部に入学した時、食堂などで野球部の方々と話した時は感動したのを今でも覚えていますし、1990年度の主将の方と撮った写真は今でもあります・・・(笑)。
また中一の時(から中三まで)の担任の先生が、自分が野球好きを知って、その当時大山という所にあった野球部専用グランドに見学に連れて行ってくれた事は、今でも有難く思います。
その先生(在学中に亡くなった)は、いつも「君は、どういう生き方がしたいかね!?」みたいな事を訊いてくるような方でした。この先生には、ホントに影響を受けました。
自分が悩んで、登校拒否をしている時は、毎日、夕方家まで来る先生でした。
学校に来なさい!とも言わず、ただ話して帰る先生でした。

ちなみにどんな大会でも勝つと校歌を歌っているので、彼女も校歌を歌えるくらいです(笑)。
彼女に「音楽以外で、あんたが素で興奮しているのはこれだけやね」と言われます・・・。
そんな彼女も勝って校歌を甲子園で聞いてみたいね!といつも言っています。
「稲佐の山の気高き姿~鶴の港の真澄の心~♪」

彼女とは、2014年の夏の甲子園で投げて、昨年、中日に育成ドラフトで入団した投手を応援しています!!。
球団の応援は別として、阪神のある一人の選手や西武のある一人の選手も応援しています。

出場回数だけ多くて、長﨑では、デルトマケとか内弁慶とか言う方々もいますが・・・、
どこと対戦しようが、長﨑からの大舞台で緊張すると思いますが、いい試合をしてもらいたいです!!
正直、昨年秋(県大会を優勝したものの)、九州大会の一回戦で沖縄の興南高校と決まった時、あまり結果を期待しなかった時に、すぐに結果をあえて見なかった時に、先に彼女が結果を見て、「あんた、勝ってるよ!!」と言ったので、ビックリしました。
その勢いで九州大会を準優勝したので、すごく興奮しました。
九州大会・準優勝は、元ロッテの堀さんがいた時のチーム以来かな!?

ちなみに自分が、6年間通った学校は、オランダ坂と言われている所を登った所にあるのですが、通っている時は、「なんでこんな所によく観光客が来るんだろう!?」と思っていましたが、その坂には、もっと大らかでゆるやかな人々の行きかいや交流(勿論、様々な打算や欲望も)があったんではないか!?と今思うと色んな想いになります。
金子光晴さんの「江戸につながるなにものもなく」という文章の中の以下の言葉を想います。
江戸につながるなにものもなく、のこっているのは、千切りにされた、勘定高い、せち辛い現代人があるだけだ。」

また「江戸はひとつの田舎ですよ」という文章の中には以下の言葉があります。
固有のものは観光客を目的としたものにかわっていくわけだね。そういう風な傾向に便利なように、昔のことをひっぱり出してくる。テレビのふるさとの歌まつりとかをやる場合に、ふだんやってない蛇踊りとかをひっぱり出してきて、いわばそれをおとりにして、長崎をきわ出たせようとする。だから本当の長崎はなんだか、というとすこぶるわからなくなってくるわけですよ。」

やっぱり<われわれ>は、根源的な空洞の中にいるという絶望を何かに預けるべきではないと思います。自身のなさ、自信のなさを何かで誤魔化すべきではないと思います。



ちなみに、野球は好きですが、「侍」という言葉を聞くと、虫唾が走ります。
侍が、そんな大したものだと思いませんし、侍を美化しすぎ。
これも明治の教育のせいですか!?そのせいで、どんだけの方々が追い詰められたんですかね!?
侍は、とうの昔から官僚的だったと思います。
「誰々は、現代の侍」とか聞くと、怒りがこみ上げます。
そんなものに民族性なんかない。そんなものに文化なんかない。
それが、民族性で文化なら、なんてこの地の貧しさだ。
そんなものに優越心なんか持てません。
そんなものこそ、われわれの貧しさ、虚しさだと思います。

それに、名ばかりの謝罪や世界記憶遺産やら近代産業がお好きなようで。
奉戴精神や番付の心理やら天皇制感覚やらが酸素になっているこの地で、世界やら近代やらと言う言葉を吐くにはまだまだ早すぎる。
その酸素に亀裂をもたらせずに、その酸素に包まっている自分自身が許せない。
明治維新の前に、改憲の前に、自分自身は、中野重治さんの言葉を借りれば「憲法以前のところ」だと思います。
明治維新は、「人間」を産みはしなかったと思います。
そもそも、この地にホントに「ナショナリズム」なんて大そうなものを産もうをしたことがあったんでしょうか!?。また<大陸浪人>の行動に英雄主義なんか持てません。
産まなかったくせに(産もうとしなかったくせに)、優越心なんか持つなよ、逆に人間としての恥辱だ!。
まずは、この認識を自分自身に刻みたいと思います(一人の人間となりたいために)。
その認識を刻むための言葉であり、音楽だと思います。
それが、この地に生まれ落ちた自分自身にとっての言葉であり、音楽です。

それから「選挙」に収斂してしまう<運動>とやらには、凄く虚しさを感じます。
それ以外で、
<われわれ>を直接突きつけている運動 (例え何かの記事にならなくても、多くの人々の関心にならなくても) に触れた事があるから(今も自分自身が知らないあらゆる所で突きつけている方々がいる。)。


対案とか現実的(って何!?諦め!?物分りの良さ!?)とか、虚しい言葉だと自分は思います。
クソ!、ヤツラの土俵の言葉じゃないか!!

この投稿の最後に(タイトルとは逆に!!)、いや~この地に流れている自然的な時間の中に包まれて許される自分自身にイライラしています。

またまたそれから、「大和魂」って何!?
大和なんてそれこそ一地方の呼び名にすぎないでしょ!?
征服者の魂、宿してどうするんだよ!?
その魂というものが、どれだけの方々を追い詰めたんでしょうか!?
そんなものに美意識とか文化なんかないと思います。

そう言えば、(これまた結構前に)、母親が絵が好きなもので、藤田嗣治さんの映画(FUJITA)を見たい!と言い(オダギリさんは格好いいですね)、一緒に見に行きました。
自分の感想としては、日本的な美や文化とか感じなく、良くも悪くも、日本的共同幻想や日本的な無責任の体系性を感じる映画で、そういう流れの中で今の自分がいるという息苦しさを感じた映画でした。反戦映画というより「the日本」という映画でした。
またあの映画からは、藤田さんが<近代的自我>を持っていたとは思えなかった。
またあの映画監督は、日本的共同幻想の良さに藤田さんには気づいて欲しかったみたいな事を言っていますが、それが、どれだけの方々を追い詰めたんでしょうか!?
それこそ「空漠不徹底な独断(柳田国男さんの言葉)」じゃないでしょうか!?

またリメイクされた「日本のいちばん長い夏」と言う映画を見たけど、なんか~!?日本人特有の天災で流して、お涙頂戴みたいな、みんな<いい人>みたいな映画でした。
悔しき映画だった。悔しくなる映画だった。
なんかよく「長崎」と言われるが、長崎とは、なんなんだろうか!?
<いい人>が、長崎を引き起こす。<いい人>が、加害者にもなり、被害者にもなる。
自分自身が造り出す今によって。
もっともっと突き刺すような言葉を吐いてみたい。
もっともっと絶望させられるような言葉が聴きたい。


それにしても普段は、(良くも悪くも) 自分の事や<家族>や<仲間>のことしか考えない(金子光晴さんの言葉を借りれば!)「理想のない、消極的な、ぐうたらな」 「移りゆくものといっしょに生きてゆく」日本人(まさに自分自身!!)のくせに、なにかの時だけに悲壮感を持ち、美化し、金子光晴さんの詩のタイトルの言葉・「寂しさの歌」に導かれるなんて、人間としての貧しさ・虚しさだと思います。

それにしても、自分は、一人の人間としての悔しさ、貧しさ、虚しさ、寂しさなどをホントに感じているのか!?
もっともっと感じるべきなんです。ホントに感じられない絶望を。
自分は、今この瞬間をもっともっと絶望すべきなんだと思います。
自分は、今この瞬間をもっともっと生きるべきなんだと思います。
しかし、今、自分は、生きることが分からないし、何をもって生きたらいいのか!?が分からない。自分には、なにもない。
あなたは、何をもって生きていますか!?
家族だろうか!?友人だろうか!?仕事だろうか!?趣味だろうか!?音楽だろうか!?本だろうか!
こういう話を彼女にすると、「寂しいね」と言われました。

ちなみに、ある友人(というか先輩)が、「反戦」という事について、自身のブログで記事を書いていましたが、パンクスにとって馴染み深いこの言葉(crassやconflictが言っていたからとかではなく)が、自分にとってホントにどういう生き方を問うているのか!?
何が「GOTCHA」だよ!?
ホントに認識して、ホントに生きて、ホントに闘っているのか!?
ホントに鼓動を鳴らしているのか!?

久しぶりの投稿も、音楽で言えば、<転調> (しかもまとまりのない!)ばかりで、すみません。
♯ファ ド ソ レ ラ ミ シ  ♭シ ミ ラ レ ソ ド ファ



今日の音楽は、
友川カズキさんの「復讐バーボン」というアルバムです。
何十年も前に、パンクの先輩にCDを借りたような気がします。
それから昨年まで聴かずに過ごしていたのですが、書店でたまたま「友川カズキ 独白録」という本を手に取ったところ、これは読みたい!!と思い、すぐに購入しました。
それから、久しぶりに友川さんの音楽をよく聴いています。

この本の中には、何度も読み返してしまう言葉が、多々ありますが、
よく読み返すのは、「何に焦がれていくのか」、「何を焦がしていくのか」というとこです。

またドキュメンタリー映画「花々の過失」をdvdで何度も見ましたが、「おまえはどうするんだ?」ってね、胸ぐら掴まれて問い詰められてるよう(独白録の中の言葉)な映画でした。

(またまたですが)、今の自分を問い詰めるような言葉は、「海みたいな空だ」という曲の中の以下の歌詞です、
人がある 国がある
 のんきに錆びつくものがある
 群れて許される顔に
 目ん玉を投げつけてやる

復讐バーボンというアルバムの中に、「家出青年」という曲がありますが、
その中に、「悔しき暴力である」という歌詞がありますが、今もこの瞬間にある暴力に、自分自身が造っている暴力に、群れて許される暴力に、ホントに悔しさを感じているのか!?
気休めみたいな希望で流す自分を許す自分自身。
馴された希望の言葉に奥歯を噛みしめていたい。
未来という言葉に奥歯を噛みしめていたい。

それでは、また。
(gotcha1977)