先日の投稿に続けて、3月に入って間を空けずにの投稿です。
みなさん、こんばんは。
今日も、人間(!?)としての暖かさや嬉しさや優しさや切なさがありますが、そういう想いもすぐに何かによってなくなるのだろうか!?
誰かを想う気持ちとかかき消され、何かに委ねるのだろうか!?
山城むつみさんの「連続する問題」という本のなかに<終戦記念日に連続する問題>という何度も読み返す文章があります。
その中で、こういう一節があります。
「実際には、戦時下にあっても人々は合理的な思考を多分に持っていたのであり、合理的な思考を保ったまま幻想に踊らされたというところにこそ厄介な問題があるのだ。」
今も連続しているこういう問題、日常は、なぜなんだろうか!?
なぜなんだろうか!?
どうしたら抜けられるんだろうか!?
国家や秩序や民族とか、そんなに魅力があるのだろうか!?
どうなんだろうか!?
アナキスト和田久太郎さんは、
「弱き者よ、その弱さに徹せよ」と言う想いをある文章で書いていましたが、彼が生きていた時間から連続している今、この瞬間の日常にかき消される想いなんだろうか!?
最近、こういう暴力がありましたね。
http://oidashisuruna.blogspot.jp/
正に、Dischargeのstate violence state control。
暴力とは何なんでしょうか!?
こういう暴力を容認して(普段は、泣けるとか切ないとか言う言葉が溢れる日常で)自分自身が造っている共同幻想とは何なんでしょうか!?
あるパンクスの友人は、こういう事をアナキズム5号で書いています、
「基本的に弾圧とは、それが一人に対するものであっても皆への弾圧だ、と受け止めるべきである。」
こういう原則は、守られるべきものだと思います。
少し前まで、こういう暴力に対して、少しはもっと敏感だったはずなのに、最近鈍感になったと思います。
(これまたパンクバンドですが)DOOMの曲名じゃないけど、正にPOLICE BASTARDは、自分自身だ。
そんな今日の音楽は、久しぶりにCONFLICTのincrease the pressureです。
高校生の時に、このアルバムを聴いて、こういう人間(なのか!?)になりました。
その時の衝動に反する生き方だけはしたくない。その時の衝動に対する立ち方だけはしたい。
それにしてもただ悔しい。
(またまた)それにしても、他のクニの動きや音楽やなんやらで、燃える!と言う想いになる前に、そういう言葉を吐く前に、この地に連続している、自分自身に連続しているものをもっともっと凝視すべきなんだと思います。
そういう意味で、辺見庸さんの「1937」を読みたいな~と思っています。
それでは、また。
(gotcha1977)
2016年3月6日日曜日
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