2013年5月21日火曜日

無題。

「橋川:僕はそれで思い出すんですが、昭和19年にぼくらの仲間に詩人の宋左近がいましてね、かれの召集で送別会をやったんですよ。その席でわれわれにとって基本的な前提は何かということで、つまり人間として世界を見るというのと、日本人として世界を見るというのとで、大学生のよくやる形而上学の議論になって、何か非常にグロテスクといっていいような、しかしかなり深刻な場面が展開したわけです。宋左近はフランス文学ですから、仲間には白井健三郎もいましてね、かれらは人間が前提だという言い方をする。しかし、人間が前提だというのは抽象論でいわば近代主義だというのが僕なんかみたいな浪漫派の連中ですよね。それで大論争になったんですが、戦後の今のナショナリズムの問題も、いつかその問題にぶつかるという可能性もありそうで、30年というとちょうど1サイクルだから、あと10年ぐらいもすると、そういう場面がでてくるかもしれないという変な感じもしますね。そういう問題設定がこんなに開かれた日本社会で起こるはずはないと思うのが普通なんですが、それだけではあまり保証にはならない。戦前だって、かなり開かれていたわけです。世界のあらゆる文化も・・・・・・。(橋川文三さん、鮎川信夫さん対談.<体験・思想・ナショナリズム>1976年より)

よく「偏った思想は、危険」とか聞いたり言われたりするけど、自分は、生まれてからこのかた、<日本人>・<男>という思想に偏っているだけでなく、足の先から頭のてっぺんまでドップリ漬かって生きている。
<個>であることではなく、<個>になること・<人間>であることではなく、<人間>になることは、吉本隆明さんの言葉を借りれば、「おおきな否定とのり越え」を必要とすることだとつくづく思わされます。
自虐とか、いかなる政治人がどうのこうのとかではなく、ましては仕方がなかった事といった無責任極まりない事ではなく、これは<人間>になりたい!!と言うオノレ自身の衝動の問題だと思います。

そして以下の様々の言葉は、オノレ自身への問いとして。

敗戦は、大衆に平和をのぞませた。が、それ以上の意識性を生んではいない。加害の相手方にたいする、あるいは戦ったことにたいする自己の責任を問うことはない。むしろ国家権力の被害者であったと感じることで、自己の歴史の一切を、歴史の総体から分離して救いうるのである。その個の意識構造のなかに、責任の論理が欠落していることこそ、私には、日本伝来の土民生活体が生んだ精神性だと思っている。戦争犯罪は、上はテンノウヘイカから下は憲兵さんに至るまで、いや行政官も植民地生まれの少女も、日本という民族意識の総意に対して、個的責任を問われたことはないのである。戦犯で処罰された者の誰がその刑を自己の思想性と対応させて判断しただろう。民族のギセイになったとしか考えてはいないのだ。個別責任を問われることのない共同体感覚の永続性を民衆がいかに願っているかは、敗戦ののちの近代化の進展が、血縁地縁共同体から核家族へとその生活の基本を分断させるとただちに、前近代的組集団(親子分集団)へ参加するか世界連合的な有形無形の意識へ加盟してしまったことにもうかがえる。この日本民衆の体質のあらわれは、日本人の転向の本質にもつながっているのである。(森崎和江さん・媒介者の思想)」

日本の体質にぬりかためられている互いの根源へかいくぐり、今日を生き合うための、反日本的体質を育て合う。(森崎和江さん・活字のまえ、活字のあと)」

わたしは、にほんでにほんの民衆のなかに正攻法に転化し得るものを探し歩いているのです。(森崎和江さん・訪韓スケッチによせて)」

いまは私たちはいちずに自己を問わねばならない。過去の非をみずから責めるためだけではないのである。あのようなアジア進出以外のどのような意識の型を、日本人民衆はその生活の伝統のなかから生みうるかを問わねばならないからである。そのことをぬきにしたアジア民衆の政治的次元における連帯などは、私にはボタ山をころげおちる石くれほどの重さにも感じとれない
(森崎和江さん・民衆意識における朝鮮人と日本人)」

私たちは、なんどでも、疑いようのない歴史的事実の前に立つべきではないか。それは、日本帝国主義を倒したものが日本人民の中の誰でもないという事実である
(橋川文三さん・抵抗責任者の責任意識)」

私たちは百年の日本近代史を多面的にくりかえし学びかえし、その全体についての責任を己のものとする立場を確立せねばならぬという以外にはない
(橋川文三さん・日本ロマン派の諸問題)」

否応なく、日本人と規定されながら、流されながら生きている。
ヒューマニティーの彼方の景色が見たい。信じたい。唄いたい。
それにしてもCRASSが吐いた「THERE IS NO AUTHORITY BUT YOURSELF」という言葉は、日本的な共同幻想の元において、ホントに重いものだと改めて思います。



それでは、また。
(gotcha1977)