2014年7月2日水曜日

憲法。

今日も「国家」とは何だろうか!?という事をやっぱり考えざるを得ないです。
平和も戦争も国家という存在(しているのか!?していないのか!?)自体を根源的に問う事しか始まらないと思うんですが・・・。
また第一条がある限り、そもそも<ナショナル>もないと思うんですが・・・。


憲法と言えば、明治14年、植木枝盛さん達は、「東洋大日本国国憲案」というものを起草したようです。
その中の第四編で、以下の条文を書いています。

第63条 日本人民は日本国を辞することを自由とす

第71条 政府官圧制を為すときは日本人民は之を排斥するを得
政府威力を以て専恣暴逆を逞ふするときは日本人民は兵器を以て之に抗することを得

また植木枝盛さん達は、それこそ国際情勢が厳しい時に、「無上政法論」というカントさんの「永久の平和のために」を思わせるものも起草しています。
また(また)植木枝盛さんは、究極の理想は、国家の廃絶というとこまで考えていたことに自分は勇気づけられるわけであります。
こういう言葉が、通じないのは解っています。知識とかそういうものではなく、互いに通じないという根源的な所から始めるしかない。
通じないから考える。
簡単(!?)に通じるなら、逆に人間の価値なんかないとも思います。
その通じないという重さに拮抗出来るかどうか!?こそが人間の価値ではないかと思います。
憲法がなんだ、天皇がなんだ、国家がなんだ、そんな観念的なものではなく、この毎日が戦争のような平和な日常という息苦しさの中では・・・。

今日の自分の言葉も、石川啄木さんの言葉 「言葉とおこないを分ちがたき」の真逆のものにすぎない・・・。
そんな自分ですが、アナキズムの「国家の廃絶」という原理・思想(!?)だけは今日も夢想したい、信仰したいと思います。
それこそ大文字のアナキズムかもしれませんが、こういう夢想なく、なんのためのサークルAぞ!?
こんな言葉も、口だけにすぎない・・・。

それでは、また。
(gotcha1977)







2014年6月20日金曜日

長崎。

先日、東京でHッセーと「長崎被爆者に対する暴言」について、結構議論というか素直な考えを言い合ったんですが・・・。

今から記述する事は、誤解を恐れずに素直に自分の意見を述べます。

その新聞記事を読んだのは、ちょうど長崎にいた時に長崎新聞で読みました。
で最初は、「ひでぇ~暴言だ」と思いました。
でも色々と読んだり、自分なりに考えた事は、その中学生は、長崎・原爆・平和・反核という正しさの圧迫感を感じたんではなかろうか!?と。
そんな正しさを感じられない世界への言葉だったんではなかろうか!?と思います。
そんな正しさを感じられない、この平和な日常性に対する彼なりの(それこそ、最近あんまり使いたくない言葉だけど)「闘争」の言葉だったんではなかろうか!?と思います。

言っておきますけど、暴言自体を認めてはいないですよ。
でも「ひでぇ~」とか「反核」とかいう言葉では、もう何も変わらないと思うんですよ。
そんな言葉なんか信じられない人々なんてゴロゴロしているでしょ!?
だからこそ、もっともっと言葉を吐くなら、考えないといけないとホントに思います。
だって今も昔も長崎の原爆につながっているものは、この今、この瞬間にゴロゴロしているでしょ!?
ヤツラが言う「憲法9条改正」がどうのこうとかではなく。
例えば、「男の中の男」とか、そういう言葉こそが、戦争につながっていると思います。

また今から、書くことは、別に公にしたくはないけど、
それこそ自分は、被爆3世です。
大好きだったじいちゃんが、浦上(という長崎の場所です)で被爆して、奇跡的(!?)に助かって、被爆した後に父が生まれて、今の自分がいる。

でも自分は、どちらかというと、長崎の地で、高校生の時くらいから、日本の加害責任の追及の運動とかに興味をもった。
「日帝本国人」とかいう言葉を使いたいわけではなく、長崎って何だろな~!?と思いました。
この日常の裏の世界の縮図ではないだろうか!?と思います。
だからっと言って、日本人特有の虚無的な、「もののあわれ」という、人間としてクソみたいな無責任な心境になる事は、絶対に拒否する。

それでは、また。
(gotcha1977)










2014年6月17日火曜日

東京は、楽しかった!!

先週の金曜から3泊4日で東京に行きました。
Hッセーには、色々と連れて行ってくれて、色んな方々に紹介してくれてホントに感謝しています。
前々から会ってみたいな~と思う方々と会えて良かったです。
人見知りをするので、うまく話せなかったのがあれなんですが・・・。
また再会したかった敬愛している方や会いたかった方々には会えなくて残念でしたが、次回の楽しみにしたいと思います。

着いた初日から、オールナイトのhip hopのイベントに行き、何線(吉祥寺~渋谷)かは忘れましたが、帰りの始発の電車内で、Hッセーと寝入って、2往復もしていた事などいい思い出になりました。
次の日の、1981というフィンランドのアナーコパンクの日本ツアー初日を体験できたのも良かったです。
同じステージで、以前から体験したかったCやUNARMなども見れて良かったです。
そんな今日の音楽は、これです!!

CのAさんとは、2週間前にも福岡で、CONTROLの企画ライブの時に会ったので不思議な感じでした。
いつも何かと誘ってくれて、いつも断ってばかりが続いていますが、ホントにいつも有難く思っています!!

色んな刺激を受けた3泊4日だったので、また明日からCUBASEさんをもっと使い慣れて、自分自身の音楽・言葉を創ろうと思います。
でも最近つくづく思うことは、自戒的に、言葉は声明文であっては面白くないな~と。
自分の言葉には、「詩」がなかったと最近ホントに痛感しています。

それでは、また。
(gotcha1977)












2014年6月3日火曜日

なんじのlongingを空際に投げよ、空際より、なんじが人間に為すべきの天職を捉り来れ、(北村透谷さん)

みなさん、お久しぶりです!!
先ほど、友人と話して久しぶりに投稿しようかな~と思い投稿します。
来週、長年、想い続けている会いたい方に会いに東京に行こうかな~と思っています。

前回の投稿から、ずう~っと投稿する気力がなかったのは、打ち込みソフトをcubase7.5にして、それに慣れるのに精いっぱいで・・・。
慣れない事をほぼ毎日何時間かしていたら疲れきって、眠る感じでした。
慣れたら、楽しくてしょうがないです(笑)。
コードトラック機能とかコードアシスタント機能とか面白いです。また「こういう音色を重ねたい!!」と思いながら、ソフトシンセの音色を探し、イメージに合う音色があった時の快感がたまりません。

(画像は、簡単なコード進行とBUCK-TICKのnew singleの<形而上 流星>)

cubase7.5も最初は、凄く慣れるのに苦労!?(苦労なのか!?言いたい事があるからこそのものだろうと。伝えたい事があるとかではなく、自分自身が言いたい事があるからだろうが。メッセージなんかない、ただ言いたい事があるだけ。) しましたが、操作とかにイライラしたり、うまくいかない事があったりして、投げやりになると、彼女に「あんたが、歌いたい!という気持ちはそんなものか!?そんな半端な気持ちなら、辞めてしまえ!!」と筑豊弁でまくしたてられました・・・。

今日のタイトルにいきます、
北村透谷さんは、橋川文三さんの本にちゅくちょく名前が出てきて、直接に読んでみたい!!と思う方でした。
岩波文庫版・北村透谷選集を読んでみると、物凄く!!くるものがありました。
それこそ<形而上>的な言葉かもしれないけど、「じゃあ、今、何を信じ、何のために生きている!? 解りやすくニュースや世界(!?)情勢を解説してくれる言葉で満足なのか!?解りきったような言葉で満足なのか!?他者を罰するような言葉で満足なのか!?」と。

BUCK-TICKのニューシングルを聴くと北村透谷さんの言葉を読み返したくなり、北村透谷さんを読み返すとBUCK-TICKを聴きたくなる。

形而上というと、<ドイツ観念論>ですかね。
先日、彼女とガンダムユニコーン7を見に行ったんですが、彼女が「あんたが、好きそうな言葉があるね」と言っていましたが、
自分は、「人間だけが神を持つ、今を超える力、可能性という名の内なる神を」というセリフが好きなんですが、ユニコーンに出てくる言葉を聞くとカントさんを思うんですが、一方でカントさんの「道徳律」やルソーさんの「一般意志」は、恐い感じがします。
「じゃあ、自分はどうしたらいい!?」に尽きると思うんです。答えなく、それを考え続ける事を北村透谷さんの言葉の数々から学びました。
そう素直に感じられたのは、やっぱり<パンク>のおかげかな!?と思います。
There is no authority but yourself!!


吾れ世にただようこと数戴、未だ曾て疑迷を脱せず、希の哲学も近世の哲学も、悉く以て、余を慰癒するに堪えず、もうもうとし、恍々とし、虚然とし、鬱然とし、想至り情極むとも、以て余を如何ともするなし。(北村透谷さん・渡守日記)」

運命人間の形を刻めり、境遇人間の姿を作れり、不可見の苦縄人間の手足を縛せり、不可聞の魔語人間の耳朶を穿てり、信仰なきの人、自立なきの人、寛裕なきの人、往々にして極めてあわれむべき悲観に陥ることあるなり、之に加ふるに頑愚の迷信あり、誤謬の理論あり、惑溺の痴心あり、無憑の恐怖あり、盲目の驕慢あり、涯なき天と底なき地の間に、
what a poor wretched creature as i am,
creeping between heaven and earth.
と絶叫するもの、豈ハムレットのみならんや。(罪と罰の殺人罪)」

人は理想あるが故に貴かるべし、もし実存の仮偽なる境遇に満足しおわる事を得るものならば、吾人は人間の霊なる価値を知るに苦しむなり。理想なくては希望もあるまじ、希望なくては生命もあるまじ、唯だ理想あるのみにては何の善きを見ず、吾人は理想を抱くと共に、理想の終極まで貫き至らん事を望むべきなり。(一種の攘夷思想)」

造化は人間を支配す、然れども人間もまた造化を支配す、人間の中に在する自由の精神は造化に黙従するを肯ぜざるなり。造化のちからは大なり、然れども人間の自由もまた大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。(内部生命論)」

北村透谷さんの言葉は、浮き沈みが激しいんだけど、近代日本の歴史の重圧の中で、日本的な共同幻想の中で、いかに「詩的生命」は可能か!?を懸命になって放ったものだと思います。

北村透谷さんと<文学界>同人の平田禿木さんは、日清戦争(明治27年)の時にこういう言葉を吐いています、
如何に快心なる国民的発動と雖も、如何に壮偉なる国家的観念と雖も、決して詩的永遠の生命を有するものにあらざるなり・・・」


北村透谷さんや最近、読んでいる他の本や聴いている音楽について書きたいことがいっぱいあるけど、寝ます(笑)。
色川大吉さんが書かれた「北村透谷」という本も、凄く良かったです。

この投稿の最後に。
BUCK-TICKのシングル<形而上 流星>の、「胸を裂く 破裂する きっと死ぬほど美しい 夢を見た」という歌詞は、くるものがあるけど、その美は、果たして全体の幸なのか!?幸と美は調和するのか!?罪ではないのか!?。でも見てみたい。
このシングルを聴いてから、カントさんの言葉(道徳形而上学原論という本)を読み返しているけど、そんな想いにさせられる。
今月4日に、BUCK-TICKは、「或いはアナーキー」というアルバムをリリースするみたいです。
曲もいいけけど、ボーカルの櫻井さんの言葉の一つ一つを大切にした歌い方がきますね。
ぞくっとします。曲もかすかに聞こえたりする細かいシンセの音が好きです。

それでは、また。
(gotcha1977)















2014年2月4日火曜日

CUBASEさんとか。

みなさん、お久しぶりです。
早いもので、年が明けてもう1ヵ月も経ちますね。

昨年末くらいに、CUBASEさんに色んなVSTインストゥルメント(エフェクト)を組み込んでから、それにくびたっけになっています。

ここ何年かの間、引っ越しや病気やそれ以外にも色んな事があったり、色んな感情が芽生えましたが、今年中には、次の構築へ向けて行きたい(生きたい・活きたい)と思っています。


それにしても色んなエフェクトがありすぎて、色んな音を重ねすぎて、訳が分からなくなり、色々試して、創ったものを次の日に聴いたら、面白くない!!と思い削除したりの繰り返しです・・・。

そろそろCUBASEさん自体を最新の7バージョンにしようかな~と思っています。


また最近は、以下の音楽を聴いています。

・GODSPEED YOU!BLACK EMEPEROR  「Allelujah! Don't Bend!Ascend!」

・Joy Division  「CLOSER」

・MASSIVE ATTACK  「MEZZANINE」

・SCHAFT   「SWITCHBLADE」

・XINLISUPREME   「MURDER LICENSE」 「4 BOMBS」
(凄まじい情念を感じます。)


話ががらりと変り、先週末、長崎に行きました。
久しぶりに「長崎らんたん祭」を見ました。
この祭りは、自分が高校生くらいに始まったと思うんですが、始めの頃は湊公園くらいだけで開催されていたのに、規模が大きくなっていて、また人の多さにビックリしました。
彼女は、中国獅子舞が見れてご満悦でしたが。

またオランダ坂を何十年ぶりかに歩きました。
オランダ坂へ向かう道が広くなっていて、これまたビックリ!!
このオランダ坂を上ったとこにある学校に、中・高6年間を通っていました。
彼女は、「なんかキザな学校名ね」と笑っていましたが。
自分は、オランダ坂を歩いている時は、校歌を歌っていました・・・。
「国家の歌」の歌詞は、ホントに覚えていませんが(覚える気がない!?)、校歌の歌詞は今だに覚えています。
彼女は、「美輪さんも覚えてるんかな!?」とか言っていましたが・・・。

それでは、また。
(gotcha1977)