2014年6月20日金曜日

長崎。

先日、東京でHッセーと「長崎被爆者に対する暴言」について、結構議論というか素直な考えを言い合ったんですが・・・。

今から記述する事は、誤解を恐れずに素直に自分の意見を述べます。

その新聞記事を読んだのは、ちょうど長崎にいた時に長崎新聞で読みました。
で最初は、「ひでぇ~暴言だ」と思いました。
でも色々と読んだり、自分なりに考えた事は、その中学生は、長崎・原爆・平和・反核という正しさの圧迫感を感じたんではなかろうか!?と。
そんな正しさを感じられない世界への言葉だったんではなかろうか!?と思います。
そんな正しさを感じられない、この平和な日常性に対する彼なりの(それこそ、最近あんまり使いたくない言葉だけど)「闘争」の言葉だったんではなかろうか!?と思います。

言っておきますけど、暴言自体を認めてはいないですよ。
でも「ひでぇ~」とか「反核」とかいう言葉では、もう何も変わらないと思うんですよ。
そんな言葉なんか信じられない人々なんてゴロゴロしているでしょ!?
だからこそ、もっともっと言葉を吐くなら、考えないといけないとホントに思います。
だって今も昔も長崎の原爆につながっているものは、この今、この瞬間にゴロゴロしているでしょ!?
ヤツラが言う「憲法9条改正」がどうのこうとかではなく。
例えば、「男の中の男」とか、そういう言葉こそが、戦争につながっていると思います。

また今から、書くことは、別に公にしたくはないけど、
それこそ自分は、被爆3世です。
大好きだったじいちゃんが、浦上(という長崎の場所です)で被爆して、奇跡的(!?)に助かって、被爆した後に父が生まれて、今の自分がいる。

でも自分は、どちらかというと、長崎の地で、高校生の時くらいから、日本の加害責任の追及の運動とかに興味をもった。
「日帝本国人」とかいう言葉を使いたいわけではなく、長崎って何だろな~!?と思いました。
この日常の裏の世界の縮図ではないだろうか!?と思います。
だからっと言って、日本人特有の虚無的な、「もののあわれ」という、人間としてクソみたいな無責任な心境になる事は、絶対に拒否する。

それでは、また。
(gotcha1977)










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